【働き方改革の根幹】欧米企業「働かない労働者」が悩みだが…「働き過ぎて困る」際立つ日本の特殊性
「改革」の原動力の新しさ
日本の雇用関係は、簡単にいえば、働き方に特段の制約を課さずに全力で仕事に取り組むことと引き換えに、解雇はできるだけ避け、人を育成し、頑張りに見合った報酬を支払うという交換関係である。 こうした取引特性を反映して、労働組合の労働時間規制の努力も、誤解を恐れずにいえば、究極的には上司から部下に対する明示的もしくは黙示的な指揮命令が貫徹する、限りなく経営主導の決定に対して、緩やかな集団的な枠をはめる域を出られなかった(石田・寺井、2012)。労働時間の規制に対して労働組合が微温的態度であるのは、労働給付への規制が、常に規制を償うに足る生産性の向上を保証する「話し合い」にならざるを得ないからである。 生産性の向上があってこそ労働時間の制限が可能になるという暗黙の労使合意への批判者たる者は、「企業中心主義的社会」(corporate-centered society , A. Gordon,1998)の規範への批判者、簡単にいえば左翼というイデオロギー的レッテルを付与されることから免れることはできなかった。戦後のそういう「企業中心主義的社会」の時代に私たちは猛烈社員としての生き方を選択してきた。 この点に関わって注目すべきは、今次の「働き方」改革の社会的原動力が、脱イデオロギー的な性格であることである。簡単にいえば企業中心主義に反抗する左翼的主張では全くない。女性の活躍できる職場の実現という目標に表現されているように、その主張は日本の労使関係のイデオロギー性をすべからく脱した要求であるだけに、さりげなくも抗いがたい質量をもっている。 「子どもの保育園への送り迎えができなくて困ります」という家庭生活のごくありふれた要望に企業が拒絶をもって応じることは、「企業中心主義的社会」規範への左翼的イデオロギーによる批判に対する峻拒に比べて、はるかに困難である。人間として恥ずかしいからである。 生活のニーズにもっぱら立脚した要求の脱イデオロギー性は、新しい時代を覆う精神であり、「働き方改革」の進展の静かであっても持続的な動力源になっている。 しかし、日本の雇用関係がまじめな反省を迫られていると述べたが、そもそも雇用関係とは何であり、その日本的特質はどのように認識できるのだろうか。少し遠回りになるけれど確かな根拠に基づく議論をするためには避けられない課題である。 石田 光男 同志社大学名誉教授 国際産業関係研究所所長
石田 光男