「桶狭間の戦い」実は奇襲ではなかった? 織田信長の逆転劇を今川義元と解説
今川義元:楽しそうでなにより。一方、勢力争いをしていた今川と織田の対立状況は、信秀の死後さらに動き始めたわけです。われわれ今川勢は、尾張へのさらなる攻撃に向けて、準備を整えはじめました。 まず息子・氏真を北条氏康の長女・早川殿と結婚させ、娘の嶺松院を武田信玄の子・武田義信と結婚させます。婚姻関係を結ぶことで、いわゆる「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」を結成したのですよね。 【解説】甲相駿三国同盟 甲斐の武田氏(甲)、相模の北条氏(相)、駿河の今川氏(駿)の三者で同盟を結んだ。この同盟により、三国は背後を固めた状態で各方面の戦いに集中することができた。 織田信長:後方の憂いもなくなった今川勢は、駿河・遠江・三河3国の大軍を率いて上洛のため西進を開始してきたわけだ。尾張の領地は攻め込まれ、織田方の拠点は次々と攻略されていったのだな。 【解説】次々と攻略された 今川軍が攻めてきたとの報を受けても、信長は動こうとせず、世間話だけして家臣らを帰らせたという。相当楽観的だったらしい。 今川義元:\イケイケ今川!/ \GOGO今川!/ ですね。鷲津・丸根砦を落とした我々は、5月19日、本陣を桶狭間山に移したわけです。 織田信長:そしてこの場所で繰り広げられたのが「桶狭間の戦い」というわけだな。 今川義元:圧倒的な戦力差から、織田方からの寝返りも多く発生。今川が絶対的に有利な状況だったのですが、なんと我々、敗北を喫するのです…。いま考えてもマジ?????????って感じです…。 織田信長:当時、桶狭間では視界を妨げるほどの激しい雨が降っていた。雨だけなく雹も降ったとも言われているのだが、そんな中、我々の軍勢は豪雨に乗じて兵をこっそりと進め、今川義元の本陣に奇襲をしかけたわけだ。 【解説】奇襲は本当? 「本陣への進路を迂回して雨にまぎれて奇襲した」というのは後世の創作で、「全力で正面突破した」という資料のほうが正しいのでは、という説もある。