「おれについてこい!」…日本女子バレー「東洋の魔女」をしごき上げた「鬼の大松」超スパルタ伝説の「意外な真実」
大松本こそ「自己啓発本」の先駆けだった
こうしてできた『おれについてこい! 』の「まえがき」で、大松監督はこんな風に書いています。 〈わたしが講談社の朝倉光男さんにつかまったのは、昨年の暮れでした。/そのころわたしは、急に“有名人”になって、日夜、ジャーナリストに追いかけられどおしで、若干ノイローゼぎみでした。わたしは逃げ回ることばかり考えていたのです。/ところが、不意につかまって、話しているうちに、事情が変わってきたのです。というのは、“なせばなる”とわたしがつねひごろ口にしていることを、年若い弟のような朝倉さんもまた、地で行っていることを感じてきたからです。ちっとも仕事になれていないけれども、また、わたしと同じように口べたで、いっこうに、おたがいの話はスムースに進まないけれど、どこまでも食いさがって、どうしてもわたしに書かせようとしている気魄が、わたしを動かすのです〉 同作はスポーツマンによる自伝としても、そして現在では自己啓発本といわれるジャンルの作品としても、先駆的な一冊となりました。
スポーツマンに本を書かせるなんて邪道だ、の声も
「原稿ができあがった後、うちの部署に実習に来ているI君に読んでもらって百点満点で採点してくれとお願いしたら、百点と書いたんです。あの頃、太平洋を横断した冒険家・堀江謙一さんの『太平洋ひとりぼっち』がベストセラーになっていたのだけれど、それより面白いと言ってくれた。 でも企画会議は紛糾しました。スポーツマンに本を書かせるなんて邪道だとか抵抗にあった。そこで先輩のMさんが『これはスポーツの本じゃない。経営者に読ませるべき本だ』と支持してくれて、無理矢理通してくれた。それでも販売部は疑っていたのか、部数を決める前にゲラを読まないと決められない、と言い張り、販売担当者、販売部長、宣伝部長、業務部長と皆が読んで8000部と決まりました」(前出・対談録より) その後の顛末は予想がつくかもしれません。『おれについてこい! 』が発刊されたのは東京五輪の1年半前、1963(昭和38)年6月。そして東京五輪での劇的な金メダルへとつながります。 大会直前に世帯普及率が90%に迫った白黒テレビの前で、列島中の人が日本女子バレーチームに声援を送り、宿敵・ソ連相手の決勝戦の視聴率は驚異の85%を記録しました。ソ連を3-0のストレートで破った「東洋の魔女」たちが、鬼と言われた監督を大松先生と呼び、慕っているのを見て、日本中の人達が大松本を手にとったのです。 『おれについてこい! 』はベストセラーとなり、以後、大松監督は講談社から『なせば成る 続・おれについてこい! 』(1964年12月)、『大松・中国を鍛える』(1965年)、『わたしの信念 成功への条件』(1966年)、『燃やせ! 心に勇気』(1968年)と次々自著を上梓しました。