新選組のルーツを訪ねる 二番隊組長・永倉新八が余生を送った北海道・小樽
小樽新聞の連載記事が書籍「新撰組顛末記」に
JR南小樽駅から徒歩約10分。永倉の菩提寺である浄土真宗東本願寺派の寺院・量徳寺には、永倉のミニ資料館と石碑がある。開創150年にあたる平成20年(2008)の記念事業で設置した。「問い合わせの際は、決して大きな展示ではありませんと説明しています」と檀家総代の山村史郎さんが語る通り、ミニ資料館の広さは約4畳程度とコンパクトだが、永倉晩年の写真や小樽にあった住居の写真・図面などの貴重な資料が展示されている。 量徳寺から海の方へ約15分ほど歩くと、孫に剣術を教えたという神社・水天宮にたどりつく。小高い丘の上にあり、境内は広い。北の方角を眺めると小樽の港が見えた。明治時代にはニシン漁や貿易で栄えたという小樽の海を、永倉も孫とともに眺めたのかもしれない。
「(永倉に剣術を教えられた)叔父は、実は剣術が嫌だったそうです」と笑うのは、永倉のひ孫で札幌市在住のライター・杉村悦郎さん(65)。「新選組 永倉新八外伝」(新人物往来社)を含む永倉関連の著作を有する。叔父とは、永倉の孫の故・逸郎さんであり、杉村さん自身は、同じく孫で逸郎さんの弟の故・利郎さんを父に持つ。 杉村さんが永倉の本を著したのは、父の利郎さんから「身内が書かねば、正確なことが伝わらない」と言われたことが1つの契機だったが、いざ調べを進めると決して簡単ではなかった。永倉が出した書簡を調べようとしてもほとんど見つけることができないなど、残された資料が乏しかった。 勝てば官軍、負ければ賊軍。明治の世で、新選組は天皇に仇なした「朝敵」とみなされていた。永倉が身を慎んでひっそり生きてきたと気づき、杉村さんはがく然としたという。かつて、「永倉新八さんは、娘や孫に池田屋事件のことを話して聞かせたか」と、ある人から問われた叔父の逸郎さんが、「子や孫に、自分が斬った人間の話をできるわけがないだろ」と気色ばんだというエピソードも残っている。