新選組のルーツを訪ねる 二番隊組長・永倉新八が余生を送った北海道・小樽
幕末の京の都で反幕府勢力を取り締まり、戊辰戦争では幕府軍として転戦した末に時代の中へ消えていった新選組。歴史ファンのみならず、ドラマ、アニメ、ゲーム、小説など創作の題材としても人気を集める新選組のルーツを訪ねる。北海道・小樽は、新選組の中でも剣の腕は随一と伝えられる永倉新八が余生を送った土地だ。明治の世になり、永倉は身を慎んで生きつつも新選組の名誉回復に力を注ぐ半生を送った。
新選組の名誉回復に注力
JR函館本線に揺られ、右側の窓から外を眺めていると、石狩湾が目の前に現れた。この日は快晴とあって海は青く、美しい。恥ずかしながら、札幌市と小樽市が隣り合っているとは、取材の時まで知らなかった。JR札幌駅と同小樽駅の間は33.8km、快速エアポートに乗れば30数分で行き来できる。 永倉新八は天保10年(1839)9月、松前藩・江戸定府取次役の長倉堪治の次男として、江戸の松前藩邸で生まれた。天保5年(1834)生まれの近藤勇より5歳、天保6年(1835)生まれの土方歳三より4歳、文政12年(1829)生まれの井上源三郎より10歳年下になる。 8歳で剣術の修行を開始。安政3年(1856)に脱藩、永倉姓を名乗り、剣の道に没頭する。近藤が道場主を務める試衛館にも出入りするようになり、土方や沖田総司、斎藤一、原田左之助など、のちに新選組でともに戦う面々と交わった。
文久3年(1863)、近藤らとともに上洛。新選組では副長助勤・二番隊組長として、元治元年(1864)の池田屋事件などで腕をふるったが、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いの敗北を経て、考えの違いから近藤と袂をわかつ。その後、北関東を転戦したのち、江戸に潜伏。待ち続けた反攻の機はついに訪れず、松前藩家老の紹介により明治4年(1871)、北海道・松前で松前藩医・杉村松柏の娘・よねと結婚して婿養子に。明治8年(1875)には名を義衛(よしえ)と改めた。 杉村姓になって以降、永倉は剣術指南の仕事の都合などで、北海道と東京の間で幾度か転居を繰り返した。新選組の名誉回復に向けて、近藤が斬首された東京・板橋への慰霊碑建立、東京・日野への近藤・土方の顕彰碑建立に他の関係者とともに尽力。明治9年(1876)には板橋に慰霊碑が、明治21年(1888)には日野に顕彰碑が建立された。明治33年(1900)以降は、ほとんどの年月を小樽で過ごした。