「天皇の処刑」に備えた作戦のため「選抜された隊員たち」に、なぜか「自決」が命じられたワケ
自決に反発した佐々木原
志賀・元少佐は私のインタビューに、 「司令とは事前に、『自決の直前までもっていきますから。みな拳銃に弾丸はこめさせます。銃をとるとき、私が“待て”と声をかけますから、そこでほんとうのことをおっしゃってください』と打ち合わせをしていました」 と語ったが、佐々木原の記憶は、志賀の回想とは少しニュアンスがちがう。 「私は、司令が自決されるから、搭乗員総員、拳銃を持って道場に集まれ、と聞いたと記憶しています。われわれは寝耳に水で、なんで自決しなきゃいけないんだ、と反発しましたね。 飛行機に乗って、戦争して死ぬのはちっとも構わない。命が惜しくて戦争やってたんじゃない、飛行機で死ぬならいつでも死んでやる。負けたといっても、俺たちが負けたわけじゃない。われわれは一生懸命やるだけやったじゃないか。それを、国が負けたからって自決せよとはなにごとだ、と私ら行かなかったんです。部下たちも、戦って死ぬのならいいけど、いったい、なんの責任をとって自決しなきゃいけないんですか、とみんな言ってました。 ――ずっと後になって、これは『皇統護持の秘密作戦の人員を選抜するための芝居』だったという事情はわかりましたが、まったくね、赤穂浪士じゃあるまいし、まるでわれわれの人格を疑って試されたみたいで不愉快でした。戦後、志賀さんに、あんなカラクリで私らをだましたんですか、と食ってかかったことがありますよ。誰だって自決なんてくだらないと思う、それより部下をみんな無事に帰してやるのがほんとうじゃないですか、と。 みんな、戦争をやってきた搭乗員ばかり。役に立ってきた自負があります。それならそうと、ちゃんと命令してくれれば不服は言いません。しかし、ただ自決、と言われてもね、理由もなく自決なんてできるもんですか」
家族のために働く
志賀少佐から搭乗員たちへの話の伝わり方に誤解があったのかもしれない。志賀は、 「不満はいっさい、私が負います。それほど大切な問題でしたから」 と言う。しかし、歴戦の搭乗員としての誇りが自決を拒んだ、佐々木原の気持ちは痛いほどに察せられた。 戦争が終わり、海軍も解体すると、軍人だった者は新たな仕事を自分で見つけなければならない。父が森永食糧工業株式会社(昭和24年、森永製菓株式会社と改称)で総務課長を務めていて、息子を雇ってくれるよう会社に掛け合ってくれ、佐々木原は昭和21(1946)年1月1日付で森永に入社、三島工場で働き始めた。 同年4月には結婚、自衛隊の発足時には、パイロットとして熱心なスカウトを再三にわたって受けたが、「飛行機は危ない」との妻の反対もあって断念、昭和53年(1978)に定年退職するまで、森永ひと筋に勤め上げた。 森永に在職中の昭和46(1971)年、佐々木原は、アメリカのエース・パイロット協会(American Fighter Aces Association)が、カリフォルニア州サンディエゴで開催する年次総会に招待を受け、かつての零戦搭乗員仲間とともに初めて訪米している。 「空戦は飛行機と飛行機の戦いで、相手の顔を見ることは稀ですし、戦いは一瞬で、そこへ行くまでの空への思いとか訓練とか、共通する部分が多いので、すぐに打ち解けられるんですが、やはり文化の違いとか、戦勝国と敗戦国の差を感じましたね。 しかし、あのときアメリカに行ったのはよかったですね。アメリカの軍事力、国力の一端に触れただけでも、よくこんな大きな国と戦争する気になったなあ、と、無知の恐ろしさを実感することができました。これは、頭で考えるだけでは駄目で、やはり行って交流してはじめてわかることだと思います」