「天皇の処刑」に備えた作戦のため「選抜された隊員たち」に、なぜか「自決」が命じられたワケ
腕の皮がズル剥けに
「私は、翌朝は当直で、『即時待機』(燃料、弾薬を満載し、命令があれば即座に出撃できる状態)に入ることが決まっていたので行きませんでしたが、帰ってきた連中が言うには、トラックの荷台から腕をつかんでひっぱり上げて乗せようとすると、腕の皮がズルズルと剥けるんだそうですよ。それで、痛い、痛いと、かわいそうで困ったとのことでしたね……」 そして8月15日。戦争終結を告げる天皇の玉音放送は、大村基地にいる三四三空搭乗員の総員が、飛行場に整列して聴いた。佐々木原の予科練の同期生は、この日までに264名中215名(約81パーセント)、戦闘機専修者にいたっては21名中19名(約90パーセント)が戦没している。 「終戦を知らされて、人間って不思議なもので、みんなホッとした顔をしていましたね。これからどうなるか、先行きの見えない不安はありましたが」 15日午後、三四三空司令・源田実大佐は状況を確かめに、大分基地にあった第五航空艦隊司令部に飛んだ。さらに8月17日、司令は自ら紫電改を操縦、横須賀に向かい飛び立った。 源田司令が、大村基地に帰ってきたのは8月19日午前のことだった。このとき、司令は、東京で授けられてきた新たな任務を、出迎えた飛行長・志賀淑雄少佐に打ち明けている。 それは、近く連合軍が進駐してきて日本は占領されるが、天皇の処遇および国体(天皇を中心とする国家体制)の維持に対しては不透明なままであることから、天皇の処刑をふくむ最悪の事態にそなえて、皇統を絶やさず国体を護持するため、皇族の子弟の1人をかくまい、養育する、という秘密の作戦だった(皇統護持秘密作戦)。
自決を装った作戦
ことの性質上、作戦準備は隠密裏に進めなければならない。このとき、志賀少佐は、行動をともにする隊員を選抜するために一計を案じた。司令が自決すると装い、その供連れとなる覚悟のある者のみを、この作戦に参加させるというものである。 この日の昼、飛行場に三四三空の全搭乗員が集められ、源田司令が総員に「休暇を与える」として、部隊解散の訓示をした。司令が号令台から降りると、志賀少佐が、 「解散。ただし搭乗員、准士官以上は残れ」 と命じた。 そして残った者に、 「司令は自決される。お供したい者は午後八時に健民道場に集まれ」 と伝えた。健民道場は、飛行場の裏山の途中にあり、隊員の一部の宿舎としても使われている。