「天皇の処刑」に備えた作戦のため「選抜された隊員たち」に、なぜか「自決」が命じられたワケ
8月9日午前11時2分
8月9日――。 「当時はもう、燃料が足りないので飛行作業は1日おきとされ、この日はトラックを十台ぐらい連ねて、搭乗員総員で飛行場裏手の山登りに行きました。三四三空には戦闘七〇一、三〇一、四〇七の各飛行隊があり、それぞれ30何人かの搭乗員がいましたから、かなりの人数です。途中、私たちの乗ったトラックが故障して、修理の間、たまたまアイスキャンデー屋があったので、みんなでなかに入ってアイスキャンデーを食べていました。 すると突然、ガラスがビリビリと震えて、しばらくしてドーン、とものすごい音がした。爆撃か? と外に飛び出すと、南西の方向の青空に、真白い大きな玉が上がっていくのが見える。その真白い玉の間から真赤な炎がはしり、そこがすぐ水蒸気に包まれて、まん丸い玉が大きくなりながらゆっくりと上がってゆく。 あれはなんだ? 広島に落ちたのと同じ『新型爆弾』じゃないか、そうだそれだ! などと口々に言いながら、とはいえ、どうしようもないので山頂までは行き、弁当を食べながらきのこ雲を観察すると、どうやら爆弾は長崎に落ちたようでした。それを見ながらみんな無言になってね……。そのまま帰路について、基地に戻ったのは午後2時頃でした」
たった一発の爆弾で
大村基地に帰ると、戦闘七〇一飛行隊の整備員が、佐々木原に整備のできた紫電改のテスト飛行を依頼してきた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、いまや佐々木原以上にテスト飛行の経験が豊富な搭乗員は、ほとんど残っていなかったのだ。 「大村基地と長崎は、直線距離で20キロ足らずですから、飛行機なら目と鼻の先です。高度をとって急上昇、急降下、そして宙返りやクイックロール、スローロール、垂直旋回など、エンジンの調子も見ながら特殊飛行を実施してテスト飛行を終え、しかし、どうにも長崎の状況が気になったので黒い雲の下に入ってみた。放射能のことなど、そのときは知らなかったですからね。 ――雨の降るなかを低空で見た長崎の情景は、一生忘れられません。浦上天主堂の残骸はかろうじてわかりましたが、一面、廃墟となって人の気配も感じられない。思わず息を呑みましたよ。たった一発の爆弾でこんなふうになるなんて、これまで長く戦ってきた経験からも想像つかない。惨状という言葉では足りない、あまりに酷いありさまでした」 昭和20年8月9日午前11時2分、米陸軍の爆撃機、ボーイングB-29が投下した一発の原子爆弾によって長崎市街は焦土と化した。この原爆による人的被害は、長崎市原爆資料保存委員会の調査によると、同年12月の推計で、死者73,884人、負傷者74,909人におよぶ。佐々木原は、原爆投下直後の長崎上空を、おそらく最初に飛んだ日本海軍の搭乗員となった。 「飛行機の調子はよく、着陸して『今日は非常にいいよ』と言ったら整備員は喜んでいましたが、私はいま見たばかりの長崎の光景が目に焼きついて、沈痛な気持ちでした……」 夜中になって、大村海軍病院に、長崎で被爆した重傷患者が次々と運び込まれ、海軍基地からも整備員や搭乗員の一部が救援に向かった。