【ラグリパWest】50年から先へ。生駒ジュニアラグビークラブ
この日、ドリームチームに参加したOBは同志社大の前監督、宮本啓希(ひろき)や近大の4年生PR、稲場巧。不参加だったのは前川泰慶(ひろのり)。S東京ベイのチームディレクターとして海外出張中だった。 ドリームチームには保護者のセミシ・マシレワも加わった。長男のフレッチャーと次男のマイルズがこの生駒JRCにいる。マシレワは昨年のワールドカップで日本代表のFBとしてキャップ数を7に伸ばす。このグラウンドは所属する花園Lのホームでもある。 花園Lは生駒JRCの創設に深く関わっている。チーム名「近鉄」の時代、WTBとして日本代表キャップ16を持つ坂田好弘がその設立を提唱した。坂田はその後、関西ラグビー協会の会長などを歴任する。 生駒JRCのトップ、会長には田代和(たしろ・わ)がついたりした。田代はラグビー部の部長で、のちに近畿日本鉄道の社長になった。当時の近畿日本鉄道は今の持ち株会社、近鉄グループホールディングスである。 スクールではなく、「クラブ」と名づけたのは、すべての人が楽しめるようにと、ヨーロッパ型のクラブを目指したためである。指導員が参加する「生駒クラブ」は子どもたちと並行して活動を続けている。 生駒JRCのジャージーは白に細い赤の段柄が入る。副会長の米山博文は説明する。 「その細い赤がつながって、太くなったら日本代表のジャージーになります」 米山はこの大会で司会進行につとめた。関西ラグビー協会の広報委員でもある。 そのジャージーは子どもたちの大きな成長を願って作られた。左胸には生駒の市木、「樫」の葉が緑でプリントされている。チーム名は創設時、「少年」となっていたが、昨年、ジュニアに変更された。 現在、生駒JRCの会長は三宅秀和である。66歳。現役時代はWTBだった。1975年度の高校日本代表で、同志社大では紺グレを初めて大学選手権決勝に押し上げた。16回大会(1979年度)は3-6で明大に敗れている。 「このような節目の時期に会長をさせてもらって、光栄なことです。その分、クラブの経営に対して、責任が出てきます。貢献できるように頑張ってゆきたいですね」 三宅を頂点とするこの大会の参加者は保護者を含めて1500人ほど。子どもたちに渡される参加記念品は700が用意された。その記念品はエコバッグ。飾りものではなく、普段使いできるようにとの気遣いがある。 この大会は熱中症対策も万全だった。グラウンドには医師4人が在駐。北側のスコアボード下にあり、ガラス張りでグラウンドが見える「ラグビーワールドカップ2019ルーム」は冷房を効かせ、避難所とした。 この15日、花園ラグビー場のある東大阪の最高気温は31度。くもりで日が差さなかったことや万全の準備もあって、きつい熱中症は出なかった。ケガは軽い打撲程度。安全な大会として幕を閉じた。 この大会に続き、記念式典は来年2月に予定されている。祝賀は続く。それはまた紡いできた半世紀の長さ、深さを示している。 (文:鎮 勝也)