「ナベツネと正力松太郎」野球に与えた影響の差…プロ野球全体の繁栄をどう考えていたのか
そういう形で1996年、渡邉は、前任の正力亨(正力松太郎の息子)を、名誉オーナーとして、自身が読売巨人軍のオーナーになった。 オーナーとして彼が強く意識したのは「巨人の覇権」だった。「正力松太郎の後継者」を意識する渡邉恒雄にとっては、正力が興した巨人を「球界の盟主、覇者」の地位から降ろすわけにはいかなかった。 しかし21世紀に入ってから「プロ野球の盟主、巨人」の力の根源だった「巨人戦の視聴率」が急落。各局は、ゴールデンタイムでのナイター中継から次々撤退していった。
2004年に入ると、パ・リーグ各球団の経営難が表面化した。渡邉は「2リーグ12球団体制」を「1リーグ10球団」に再編する構想を描く。まず東京ドームを巨人と共同で使用していた日本ハムファイターズの北海道移転に賛同する。北海道を準フランチャイズとしていた西武が難色を示したが、渡邉は西武の堤義明オーナーを説得。さらに、経営難に陥っていた近鉄とオリックスの合併も推進、ダイエーとロッテの合併話も推進しようとした。
渡邉は「1リーグ10球団」にすることで、巨人戦の「放映権」の恩恵をすべての球団にもたらそうと考えたのだ。それはすなわち「球界の盟主」としての巨人の地位を維持することでもあった。 正力松太郎が創設した「2リーグ12球団」という体制を、その後継者たる渡邉恒雄が終わらせようとしたのだ。 ■「たかが選手が」発言で1リーグ10球団構想は頓挫 この「球界再編」は、オーナー会議の賛同を得たことで、成功するかと思われたが、これに反対してストライキを打つ構えを見せたプロ野球選手会会長の古田敦也に対して渡邉が発した「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」発言によって、世論は一気に選手会側に傾き、渡邉の「1リーグ10球団構想」は頓挫することとなった。
渡邉はこの年、明治大学の好投手、一場靖弘をめぐる「栄養費」問題にかかわってオーナー職を引責辞任したが、読売グループ、巨人への影響力は衰えなかった。2011年には「清武の乱」で世間を騒がせるなど、相変わらずプロ野球界の頂点に君臨した。 渡邉と親しかったスポーツジャーナリストの江尻良文の著書「渡邉恒雄とプロ野球」(双葉社)には、「江川事件」が勃発した際に、渡邉は江川卓の巨人入り、小林繁の阪神移籍へ向けて奔走したと書かれている。当時まだ局長クラスだった渡邉がこの大事件にどこまで関与したかは疑問が残るが、「球界のフィクサー」として大きな影響力を行使したことをことさら強調したかったのではないか。