「ナベツネと正力松太郎」野球に与えた影響の差…プロ野球全体の繁栄をどう考えていたのか
急転直下、この年の11月22日の、代表者会議でプロ野球の2リーグ分立が決定した。 毎日新聞の本田親男にプロ野球参入を呼びかけたことでもわかるように、正力は、2リーグ分立に際しても、ひとり「読売」の利得だけを考えるのではなく、職業野球全体の繁栄を考えていたのだ。 正力はプロ野球だけでなく、プロレスやサッカーリーグの創設にも大きく関与したが、自社の利益だけでなく、日本のスポーツ振興そのものを考えるスケールの大きな構想力を持つ経営者だったと言えるだろう。
■巨人のナイター中継で莫大な放映権料を得る また正力は、日本初の民間テレビ局である日本テレビも設立した。これを皮切りに民放テレビ局が次々と開局したことから正力は「民放の父」とも呼ばれた。 そして読売巨人軍は、日本テレビ系列でナイター中継を始め、圧倒的な人気を集めるようになる。これがプロ野球隆盛のきっかけとなった。 その象徴となったのが1959年6月、後楽園球場で行われた巨人―阪神の天覧試合だった。長嶋茂雄の劇的なサヨナラホームランで幕を閉じたこの試合、正力はご案内役として、昭和天皇、皇后をエスコートした。天皇とは「虎の門事件」で警視庁を追われてから36年目の再会だった、今の言葉でいえば壮大な「伏線回収」になったのだ。
巨人は高視聴率の「ナイター中継」で莫大な放映権料を得た。そしてセ・リーグ各球団は、巨人戦の主催ゲームの放映権を民放各局に販売することで潤った。巨人戦のないパ・リーグ球団は、親会社の損失補填で辛うじて維持存続を図ったということになる。 圧倒的な人気を誇る巨人を中心とするプロ野球のビジネスモデルは、正力松太郎が確立させたと言ってよい。正力の構想力で、プロ野球は日本のナショナルパスタイム(国民的娯楽)となっていったのだ。
■読売巨人軍のオーナーになった渡邉恒雄 渡邉恒雄は東京大学を卒業、東大時代は一時共産党に所属する「インテリ左翼」だったが、読売新聞の記者として辣腕を振るった。また大野伴睦、中曽根康弘など大物政治家と接近し、政治記者として大きな存在感を持つに至った。 正力松太郎は、渡邉恒雄を高く評価し、読売新聞の中枢に引き上げた。 渡邉は「君、なぜ打者は打ったら一塁に走るんだ、三塁に走っちゃいかんのかね」といったとされるほどの野球音痴で、「野球は知らない、興味がない」と公言していたが、読売新聞社内で地位が上がるとともに、自然、読売巨人軍ともかかわりができてきた。