「ナベツネと正力松太郎」野球に与えた影響の差…プロ野球全体の繁栄をどう考えていたのか
正力松太郎はその後、東京、名古屋、大阪の有力企業に声にかけ職業野球(プロ野球)チームの結成を働きかけた。そして1936年からリーグ戦、公式戦が始まった。 太平洋戦争が始まったために、プロ野球はそれほど発展しなかったが、戦後、アメリカを中心とする占領軍がやってきて「野球」を日本復興に役立てるために奨励すると、プロ野球人気は高まった。 正力は、自社の新聞販売に役立てるために巨人軍を設立し、プロ野球のリーグ戦も始めたが、リーグ戦を維持するためには「公平、公正」である必要があることもよく知っていた。1949年、南海ホークス(今の福岡ソフトバンクホークス)が、明治大学の好投手、江藤晴康を他球団と争奪戦を繰り広げて強引に獲得したときは、南海軍の経営者を呼んで叱責している。
■2リーグ12球団体制の「正力構想」 この1949年の1月、正力松太郎は日本野球連盟の総裁(コミッショナー的地位)に就任。正力は公職追放(パージ)中ではあったが、訴追は逃れていたため連盟側はこれをGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が承認するだろうと判断していた。しかし正力はGHQ民政局と法務府特別審査局の警告によって5月13日に辞職。 ただ辞職の前に正力は「既存の6球団を8球団にする、そこで地固めをしてさらに10球団、それでも安定すれば12球団とし、2リーグへ」という「正力構想」を発表。これが「球界再編」の契機となる。
既存球団からは轟々たる非難が起こった。正力の膝元、読売新聞も5月7日「経営基盤の薄弱なプロ野球への新規参入に反対する」という社説を出した。当時の幹部の安田庄司は「反正力」の急先鋒だった。 しかし毎日新聞の社長の本田親男は、正力から事前に「2リーグ構想」を聞いていたため、すでにプロ野球参入に向けて動いていた。毎日が「資金1000万円を使って選手を囲い込み始めている」という報が飛び交い、新規参入球団も既存球団も選手獲得競争に狂奔した。