スタバに行く=「見せびらかしたい」? フラペチーノや“Macポチポチ問題”がコーヒーよりも話題になるワケ
世の中には2通りの人間がいる。 スタバに行ける人間と、行けない人間だ。 もし、あなたがスタバに行ける人間だったら、いつも片手に、あのロゴが入ったカップを持っているかもしれない。「スタバに行けない人間」の場合、たとえば、スタバが醸し出す特有の雰囲気が苦手であったり、「なぜスタバの店員はすぐに話しかけてくるのだろう?」と思ったりしたことがあるのではないか。 【画像】スタバを飲んで炎上した女性歌手 こんな極端な話がジョークとも思えないぐらい、「スタバ」は、社会の中である種の“特別な存在”になっていると思う。
「スタバにいる人ってみんなMacのパソコン使ってない?」
それを顕著に表すのが、「スタバでMacポチポチ問題」だ。「スタバにいる人ってみんなMacのパソコン使ってない?」という言説なのだが、もちろんこれはイメージで、ネットを中心に広がったネタだろう。 でも、なぜかそれに説得力を感じて、まことしやかに語られるぐらい、スタバという空間には「あるタイプ」の人たちが集まると考えられている。ビジネスの用語で言い換えるなら、これはスタバの「ブランディング」がうまくいっている、ということだろう。 知人と少し知的な会話なんかをしてお茶をする。Macを使ってスマートに仕事をこなす。いわゆる“意識が高い”ことをするときに利用される(と思われている)のが「スタバ」であり、それこそが、スタバのブランド価値である。 でも、どうしてここまで、スタバのブランディング戦略はうまくいったのか?
スタバにある不思議な一体感
それはスタバという空間に、強烈な「一体感」があるからだ。2009年前後、アメリカでスタバが経営不振になったとき、経営者だったハワード・シュルツがこのような回想をしている。 〈「スターバックスの閉店に反対する人を見て、近所のカトリック教会が閉鎖されたときに起こった反対運動を思い出した」と友人が言った。その通りだ。スターバックスは俗人にとっての教会のようなものである。静かで「礼儀正しく」とか「瞑想しましょう」とか注意書きが壁に貼ってあるわけでもないのに、みんなそうしている。(『スターバックス再生物語 つながりを育む経営』徳間書店)〉 「教会とスタバ」が並べられているのだ。「そんな、大袈裟な……」と思わずにはいられないが、キリスト教徒が集まる宗教施設と同じぐらい、スタバにも不思議な一体感があると思われていたのだ。 同じことをアメリカのスタバで感じた日本人がいた。今から26年前のことだ。 〈 名高いフラペチーノ実験の頃のサンタモニカ各店で私は不思議なことに気がついた。同じ時に同じ人がいつも集まる。ちょうどパブやバーと同じように。ある人は新聞を読み、ある人は原稿を書く。お互いがお互いを認識しあっているのはわかるが、滅多に話し声は聞こえない。別々な時間の過ごしかたにもかかわらず感じられる、強烈な連帯感、同一性。滞店時間2分のテイクアウト客にすらそれがある。(京極一「下方排除と上方排除にとって形成される“同一性”のなかにわれわれは至福の時間を過ごす」「月刊食堂」1998年9月号)〉 さらに、「強烈な連帯感、同一性」が生まれる背景には、こんなことがあるというのだ。 〈 店内に置かれたパンフレットを読んでみてほしい。そこでは他と比べてスターバックスが優れている理由が力説されている。排除のメカニズムを強化するためである。(「月刊食堂」1998年9月号)〉 当時のスタバの店内には、「今、あなたたちがいるスタバはこんなにも優れているんですよ」と思わせる仕掛けがたくさんあったのだという。そこで生まれるある種の「選民意識」を刺激することで、スタバには強烈な一体感がある、というわけだ。