『ルックバック』が宿すアニメーションの21世紀性 令和の『まんが道』が示すものとは
令和の『まんが道』が示すもの
ともあれ、『ルックバック』の示すこれら「私たち性」(土居伸彰)=「対称性の論理」の内包する21世紀性は、他にもいくつかの関連作品を本作の隣に並べることで、よりはっきりさせることができるだろう。 たとえば、土居が21世紀的なアニメーションの代表例として出した『映画 聲の形』の山田尚子が続いて手掛けた『リズと青い鳥』(2018年)。 本作もまた、吹奏楽部に所属する、傘木希美と鎧塚みぞれという2人の対照的な性格の高校生が主人公であり、彼女たち2人が童話の「リズ」と「青い鳥」に寓意的になぞらえられながら、物語を通じて互いに対する憧れが反転し合うように描かれる点において、『ルックバック』と実によく似ている。そして、それゆえに『リズと青い鳥』も「私たち」の物語として成り立っている。 あるいは、これはすでに多くの指摘があるが、藤子不二雄A(一部は「藤子不二雄」名義)による自伝的作品『まんが道』(1970~2013)と比較してみるのも興味深い。 『まんが道』は、作者である共作コンビ「藤子不二雄」の、我孫子素雄(藤子A)と藤本弘(後の藤子・F・不二雄)をそれぞれモデルとする幼なじみの満賀道雄と才野茂がマンガを通じてやはり小学生時代に運命的な出会いをし、投稿活動を経た後にプロマンガ家としてデビューするまでの長い青春の軌跡を描く。こちらも、主な語り手(主人公)の満賀(=我孫子)が才野(=藤本)の才能にコンプレックスを感じていたり、――「藤野」と「京本」が原作者の名の「藤本」を想起するのと合わせて――「藤本」が「藤子」を想起させるように、名作『まんが道』は『ルックバック』の設定や物語と重なる要素が多い。 ただ、やはり昭和=20世紀に主に描かれた藤子Aの『まんが道』と、令和の『ルックバック』では決定的な点が異なっているように見える。『まんが道』では、物語のいたるところで、主人公の満賀や才野をはじめ、登場する新進マンガ家たちがみな揃って、「マンガ」の象徴(漫画の神様)である手塚治虫を深く尊敬し、憧れる様子が繰り返し強調して描かれる(描写的にも、彼らの前に現れる手塚の姿はつねに光り輝き、あからさまに神格化されている)。また、トキワ荘で「新漫画党」を結成し、新しい児童漫画の理想を追求する満賀や才野をはじめ、寺田ヒロオ、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、つのだじろう……といった後に戦後日本マンガ史を担う巨匠となる登場キャラクターたちは、みな大文字の「マンガ」という理念を信じ、そのために青春を賭している。 しかし、『ルックバック』にはそうした『まんが道』のような主人公たちが掲げる特権的で抽象的な理想は存在しない。藤野は、回想の中の京本に「じゃあ、藤野ちゃんはなんで描いてるの?」と問いかけられる。藤野と京本がマンガを描くのは、あくまでも自分のため、せいぜい相手のためなのだ。ここには、『まんが道』で藤子Aが手塚治虫に偶像的に仮託して表現した大文字の「マンガ」の理想(縦の軸)はまったく存在しない。あるのは、藤野と京本との間の、まさに対称的で「フラット」な繋がり(横の軸)だけだ。ここからも本作の紛れもない21世紀性が感じられる。