『ルックバック』が宿すアニメーションの21世紀性 令和の『まんが道』が示すものとは
「私たち」の物語としての『ルックバック』
さらに、現代アニメーションとして『ルックバック』を考えるための補助線として好適なのが、すでに私自身も過去の著作や原稿で何度も参照してきた、『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)で著者の土居伸彰が、21世紀のアニメーションの特徴として提起した「私たち」というキーワードである。 ごくかいつまんで紹介すると、土居は同書で、主に21世紀以降のさまざまな現代アニメーションに共通して幅広く見られる特徴を、それ以前のいわば20世紀的なアニメーションからの変化を含めて象徴的に示す表現として、「私から私たちへ」と要約した。 ウォルト・ディズニーのプリンセスものからスタジオジブリの高畑勲、宮﨑駿の作品群まで、20世紀に作られていたアニメーションは、はっきりとしたアイデンティティや「世界はこうあるべきだ」という高い理想を掲げる単独の「私」を表現し続けてきた。また、その「私」が存在する世界や物語もつねに唯一無二の不変のものとしてあり、だからこそそこでは「私」と「世界」は明確に対峙する。 しかし、21世紀に入り、そうした確固とした「私」の表現が変質してきたと土居はいう。現代のアニメーションが描く「私」とは、似たような他の複数の「私」と境界線を失って融合し、流動的に一体化する。そこでは、「私」が対峙するはずの「世界」=「他者」もあいまいに「私」の中に溶かし込まれ、また単独の「私」と対峙する世界や歴史の唯一性・不可逆性も、複数性やループ性を持つものに変質していく。それゆえ、確固としたアイデンティティを失い、あいまいに複数化・匿名化した21世紀アニメーションの「私」は、もはや「私たち」とでも呼ぶべき存在になっているのだと。21世紀的なアニメーションの具体例として、『映画 聲の形』を挙げつつ土居は記す。 『聲の形』が行っているのは何かといえば、それぞれの人間がユニークな来歴を持つという前提をいったん無効化し、フラットにするということだ。[…]これもまた、ミクロとマクロがつながりあい、その両者が混ざり合うなかで起こる、「私たち」の時代における一つの態度なのではないか。「私たち」のなかに「あなたたち」が見出され、それが新たに「私たち」の一部をなす運動が起こることが。(33頁、斜体は引用者による) この土居の示唆に富む見立てを、ここでも私なりに応用してみたい。 結論を言えば、今回の押山の『ルックバック』もまた、たとえば新海誠の『君の名は。』(2016年)やディズニーの『アナと雪の女王』(2013年)などを具体例にして土居が示したのと同様の、「私たち」の物語になっていることにはっきりと気づかされる。 土居が『アナ雪』について、「単独のプリンセスという『私』にすべてを暴力的に回収していく」かつてのディズニー作品とは異なり、「初のダブルヒロインとなった本作は、二つの中心を持っている」(116、117頁)と評したように、まさに藤野と京本というダブルヒロインの『ルックバック』もまた、対照的な個性を持つ彼女たち2人が互いにねじれながら――ルックバック(背中を見ながら)――関わり合う。藤野はキャラクターとストーリーセンスに優れ、京本は背景描写が卓越している。互いが互いの才能の不足を補うかのように、しかしある部分は双子のようによく似ていながら、時に競合し、時に親しく密着しながら(「ミクロとマクロがつながりあい、その両者が混ざり合う」)一つのマンガを作り上げていく姿は、アナとエルサのような「私たち性」を明確に宿している。 土居はこうした「私たち」と呼ぶべきキャラクターを、「対称的で交換可能なもの」(32頁)とも表現するが、これはまさに、今日の現代人類学(中沢新一など)のいう「対称性symmetryの論理」と響き合う[註]。 また、土居によれば、この「私たち的」な世界においては、『君の名は。』のように世界や歴史は一回性・単独性を失い、複数化・ループ化するというが、『ルックバック』もまた、藤本は、物語後半で京本を襲うある忌まわしいできごとについて、可能世界(タイムリープ)的な想像力を喚起する描写を入れ込んでいる。こうした要素も、「私たち性」の本質と対応しているのだ。これも最近、アニメーション化された浅野いにおのマンガを原作にした『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』をはじめ、「私たち」の物語は、現代アニメのいたるところに氾濫している。