『ルックバック』が宿すアニメーションの21世紀性 令和の『まんが道』が示すものとは
アニメ版が付け加えたもう一つの対称性
ここで私が土居の言葉を借りて「私たち性」と呼んだ現代アニメーションの描く対称性は、『ルックバック』では演出的にも画面のさまざまなところで窺われる。 最も象徴的なのは、もちろん登場人物たちの「ルックバック」=「背中を見る」という所作だろう。物語の前半で京本は、藤野のマンガに憧れの気持ちを表明し、藤野も「私の背中を見て成長するんだな」と言う。そして、藤野は京本の着ていた赤いちゃんちゃんこの背中にペンでサインを描く。しかし、詳細は記さないが、物語のクライマックスでは、この関係性が『リズと青い鳥』のように反転するのだ。その瞬間を、映画は観客に背中を向けた藤野が振り返ることで示している。 また、本作のオープニングとエンディングのカットも重要だ。というのも、ここで監督の押山は、藤本の原作マンガでは描かれなかった(厳密には映像でないと描けない)ある興味深い対称性の演出を付け加えているからである。 そこではいずれも、藤野が机に向かってマンガを一心不乱に描く後ろ姿が正面から描かれる。その点で、『ルックバック』はその物語の両端のイメージも対称的に構成されている(補足しておくと、このオープニングとエンディングを含めた作品全体がある種の対称性をなしているという要素は、冒頭ページと最終ページに書かれた文字でタイトルを挟むと、オアシスの有名楽曲のタイトルになるという原作の隠された趣向にすでに見られていたものではあった)。 ところで、観客は彼女の背中を見ている(=ルックバック)ので、基本的には表情を伺うことはできない。ただ実は、部分的にはその身体の表面=表情を垣間見ることができるのだ。それが、ある種の「鏡」の反射の効果である。オープニングでは藤野が向かう机の上の、向かって左側に小さめの立て掛け型の鏡が置かれており、そこにマンガを描く彼女の顔の一部が映り込んでいる様子が描かれている。他方、エンディングでは仕事場でマンガを描く藤野の姿がほぼ同じ構図で描かれるが、彼女の対面している画面奥は全面ガラス張りの大きな窓になっており、都会のビル群の風景が広々と見えている。やがて空が暗くなっていき、夜になる。そして仕事を終えた藤野が机を立ち、部屋の電灯を消して、画面手前にあると思しき扉から出るのだが、その時に正面に広がっている夜空のガラス窓に、一瞬、光の反射で扉を開いて出ていく藤野の顔が映る。こちらでは、ガラス窓が鏡の役割を果たしているわけだ。つまり、ここでもカットは対称的なイメージを映し出しているとともに、藤野の顔と背中というもう一つの対称性も示されていることになる(ついでにいうと、この後、カメラ視点が同軸上にやや遠ざかる演出も素晴らしい)。 以上のように、アニメ化された『ルックバック』は、アニメーションでしかなしえない表現をいくつも加えながら、現代アニメーションの核心に迫る新たな傑作として生まれ変わっている。 [註] 私は最近、濱口竜介監督の『悪は存在しない』(2024)を、この「対称性の論理」の視点から試論的に論じた。関心のある方は、こちらのnote(https://note.com/yoshiken_1982/n/n88827e25db9d)のエントリを参照されたい。
渡邉大輔