【豆相人車鉄道】小田原~熱海まで、所要時間3時間半。「人が押していた鉄道」の廃線跡をたどる
かつて静岡県の熱海と神奈川県の小田原を結ぶ小さな鉄道が存在した。その名は豆相(ずそう)人車鉄道。文字通り、レール上の箱状の客車を人が押すという原始的な乗り物だった。 【画像】小田原城の南西に位置する早川口に立つ「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」の碑 以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜 著、2024年10月神奈川新聞社 刊)の内容を一部抜粋しつつ、人車鉄道とはどのようなものだったのか、廃線跡をたどってみることにしよう。
◆明治の文豪も利用した人車鉄道
熱海駅前のロータリー広場の一角、アーケード商店街の入口近くに、小さな蒸気機関車が保存・展示されている。機関車の前に設置された説明板には、「車両の長さ3.36m、高さ2.14m、幅1.39m、重さ3.6t、時速9.7km」と書かれている。 日本の蒸気機関車の王様・D51(デゴイチ)の全長が19.73mであるのと比較すれば、その小ささがよく分かる。この「熱海軽便鉄道7機関車」は、明治の終わりから大正にかけて、熱海と小田原を結んでいた軽便鉄道で実際に使われていたものだ。 説明板には「熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分」という興味深い数字も書かれている。軽便鉄道の旅は、現代の旅と比較すればずいぶんとのんびりとしたものだったのが分かる。 だが、軽便鉄道が登場する以前、熱海―小田原間には「人車鉄道」と呼ばれる、さらに原始的な鉄道が走っていた。これは文字どおり、レール上の箱状の客車を車夫が押すという乗り物であった。 1895(明治28)年7月に熱海―吉浜間、翌1896(明治29)年3月に小田原(現在の早川口)までの全線約25kmが開通した豆相人車鉄道であったが、実際に営業してみると、車夫の人件費がかさんで思うように利益が上がらず、1907(明治40)年12月には動力変更(蒸気)し、前述の軽便鉄道になった。 この人車鉄道から軽便鉄道への切り替え工事の様子を8歳の少年の視点で描いたのが、芥川龍之介の短編『トロッコ』である。人車時代に熱海―小田原間はおよそ3時間半かかっていたが、軽便になると約2時間半に短縮された。 人車時代の東京から湯河原・熱海への旅が、どのようなものだったのかを見ていくことにしよう。 その様子は、明治の文豪・国木田独歩の短編『湯ヶ原ゆき』によく描かれている。同作は主人公(独歩)が「親類の義母(おっかさん)」とともに、結核療養のために湯河原へ向かった道中の体験を元にした紀行文的な作品である。 その旅程を追いかけてみると、午前中に新宿の停車場で国府津までの切符を購入し、品川へ移動。品川駅のプラットホームで1時間以上待ち、ようやく新橋から来た神戸行きの列車に乗り込んでいる。 国府津駅に到着すると、ここで小田原に遊びに来ていた友人の「M君」にばったり出会う。このM君は独歩の親友だった田山花袋(かたい)がモデルらしい。湯河原へ一緒に行こうと誘うが、「御免、御免、最早飽き飽きした」と断られる。 帰京する花袋と別れた独歩は、湯本行きの電車(注:国府津-小田原-箱根湯本を結んでいた小田原電気鉄道)へと乗り込む。 電車は、国府津駅を発つと酒匂(さかわ)川を渡って小田原の市街地へ入り、現在の国道1号線上を小田原城の南西に位置する早川口へと進む。この早川口こそが、人車・軽便鉄道の小田原駅があった場所であり、湯河原・熱海方面に向かう湯治客は、ここで人車に乗り換えた。 人車の時刻表を見ると、熱海-小田原間は1日6往復。独歩が乗車したのは、小田原16時10分発の最終便だ。