【豆相人車鉄道】小田原~熱海まで、所要時間3時間半。「人が押していた鉄道」の廃線跡をたどる
◆脱線・転覆は、しばしば発生
『湯ヶ原ゆき』の中で独歩は、小田原駅を発車した人車の様子を「先ず二台の三等車、次に二等車が一台、此三台が一列になってゴロゴロと停車場を出て、暫時(しばら)くは小田原の場末の家並の間を上には人が押し下には車が走り、走る時は喇叭(らっぱ)を吹いて進んだ」と描写している。 車夫は豆腐屋が吹くようなラッパをプープー吹きながら人車を走らせたのだ。 小田原駅を出た人車・軽便は、まずは南へと海を目指す。現在、早川の流れを渡った先には、魚市場や食堂を併設した早川漁港がある。早川漁港が、いわゆる掘込式港湾(陸地を掘り込んで造った港)として整備されたのは昭和30年代であり、人車・軽便の線路は、現在の漁港の敷地を突っきっていた。 港を過ぎると、線路は現在の国道135号線と併走する旧道上に進路を取り、早川の集落の中を進んでいた。人車ならばともかく、軽便の蒸気機関車がこの細道を行けば、煤煙がさぞかし大変だっただろう。 箱根細工の祖とされる惟喬(これたか)親王を祭る紀伊神社の先で、廃線跡はいったん新道と合流。700mほど新道を歩いて再び旧道に入り、今度は石橋の集落の中を進む。この先、打倒平家の旗揚げをした源頼朝と坂東平氏の将・大庭景親(おおばかげちか)が対陣した古戦場・石橋山のふもとをかすめるように進む。 独歩はこの辺りの車窓風景を「どんより曇つて折り折り小雨さへ降る天気ではあるが、風が全く無いので、相模湾の波静に太平洋の煙波(えんぱ)夢のやうである。噴煙こそ見えないが大島の影も朦朧(もうろう)と浮かんで居る」と夢と現(うつつ)の境にいるような淡く美しい文章で表現している。 道は、やがて米神(こめかみ)漁港を見下ろす場所に出る。この米神漁港のブリ定置網漁は全国的に有名で、昭和30年代には日本一と称されたという。軌道は高低差のある米神の集落の上端の山際を縁取るように半円を描きながら進み、その途中の正寿院という寺院の裏手に米神駅があった。 米神までは上り坂が続くが、ここからは一転して下り坂を駆け下りる。昔の写真を見ると、この辺りの海岸線には松林があった。地元の人に話を聞くと、「下り坂で脱線した人車が海まで転げ落ちないよう、落下防止のために松が植えられた」と伝え聞いているという。 信じられないような話だが、人車鉄道の転覆事故を伝える1906(明治39)年8月29日付の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)の記事を読めば、納得がいく。 「熱海鉄道会社の人車二台までが転覆して重軽傷者七名を出したる椿事につき(中略)、変事の場所即ち江の浦新畠北に差掛かりたりしが自分(注:事故車を操車していた車夫)の二等車七号は歯止めが極めて緩るければ同所の如き急勾配(こうばい)は速力早まるは当然の事なれば強よく締めたるに突然後部が浮き立ちガクリ海辺に面して転覆したる次第なり(後略)」 このような大事故には至らないまでも、人車の脱線・転覆は、しばしば起きたという。