三題噺、総裁選と独裁政権と永井豪
これが通常の状況ならば、選挙で自民党は大敗し、政権交代が起きる。次の政権が自民党とは逆方向の政策を行い、それが当たっていれば経済は成長軌道に復帰し、政情は安定する。 が、どうも自民党は、2008年に民主党政権が誕生して下野した時に、利権を失って相当つらい目にあったらしい。「二度と下野してたまるか」という意志が、「旧統一教会を使ってでも選挙に勝とう」という行動となった。 ●「絶対に下野したくない」政党になった自民党 第2次安倍政権以降の自公政権は、「絶対に下野しない」という自民党の意志をキーワードにして読み解くとすべて理解できる。 カルトとつるみ、国民から見て分からないならば裏金にも手を染め、官房機密費という公金を横領し、「その指摘は当たらない」に代表されるようなメタな論理で質問をはぐらかし、河野太郎デジタル相に見るように突き放した物言いで論戦と対話を拒否し、日本学術会議のようななにかを意見してきそうな組織には、ルール違反すれすれの手を突っ込んで無理やり言うことを聞かせようとする。他方で、オトモダチには五輪のようなイベント経由で国家予算から利益を流し、小選挙区制と相まって組織選挙で勝てるようにする。組織票を持つ公明党と組むことも忘れない。 そこには、もう、かつての自民党には存在した「日本をきちんと成長する国家としてマネジメントしていく」という意志は見られない。 そんな自己保全意識の塊となった自民党を支えたのが、経済状況の悪化と共にどんどんつらい状況に追い込まれてきた人々だったのはなぜか。「政権側の言い分に乗っかって社会の勝ち組になった気分に浸り、ひとときの安心を得ようとする」心理、あるいはストレスから逃避するために「これは正しいことなのだ、これでもまだマシな結果なのだ」と思い込もうとする、合理化機制と呼ばれる心の動きだったように思われる。 自民党も、「そのような心持ちに浸っていいのだよ」という心理的誘導を行った。「悪夢の民主党政権」というフレーズはその典型だろう。「そうか、政権交代した結果の民主党政権が悪夢だったなら、どんなにひどくとも自民党を支持するしかないのか」という気分へと人々を誘導する。誘導された人々は、「社会の勝ち組になった気分に浸って、ひとときの安心を得て」、自らもSNSに「悪夢の民主党政権を思えば、自民党はずっとマシ」と書き込むことになる。 が、忘れてはいけない。そのつらい状況を作ったのは自民党なのだ。 こうなると選挙で、正常なフィードバックが働かなくなる。そして最後に到来するのは自民党が「絶対に下野しない体制」――すなわち独裁である。 今、自民党が憲法改正を唱え、その重点項目に緊急事態条項を挙げているのは、まさに「絶対下野しない体制」の総仕上げとしてであろう。緊急事態条項で選挙そのものを潰すことができるなら、もう自民党が下野することない。独裁の完成だ。 画面の前で眉に唾を付ける読者が続出している気がするが、これは自民党が日本を独裁国家にして支配する陰謀を持ち、周到なシナリオを描いていた……という話ではおそらくない。 政権から転がり落ちて悲哀を味わった自民党という組織が「とにかく二度とこの座を追われたくない」という切実な恐怖感から、なりふり構わない手を打ち始めたことが、転がりに転がって独裁政権につながりつつある、というところだろう。おそらく「ここまでやったら、独裁政権を志向していると疑われるのではないか、近代国家の原則たる法治を棄損し、日本を壊してしまうのではないか」とは思ってもいない。だとしたらそれはそれで暗澹たる話だ。 経緯はどうあれここまで見てきた通り、独裁は世界全体を不安定にする要因でしかない。独裁国家がどのような道をたどるのかは、今まさに我々はロシアという典型例を目撃しているところだ。 ここで私は、永井豪「ススムちゃん大ショック」(1971年)という短編マンガを思い出す。ギャグマンガでデビューし、「ハレンチ学園」(1968~1972)で一世を風靡した永井豪だが、1970年代に入ると“神がかった”としか形容しようのない勢いで「魔王ダンテ」「デビルマン」「マジンガーZ」「バイオレンスジャック」と他に例を見ない傑作を次々に発表した。