三題噺、総裁選と独裁政権と永井豪
加えて、内閣官房報償費(官房機密費)の流用問題もある。「使途を公開しなくとも良い官房機密費を自党の選挙費として使用した」と、官房長官経験者が証言した問題だ。事実なら、国費を私的目的に流用したことになり、目的外使用という犯罪に相当する。調べると官房機密費の問題は20年以上前からくすぶっており、毎年予算を完全に使い切っているなど、はっきり怪しい点もある。自民党は「選挙には使っていない」と断言しているが、「機密なので」と証拠を提示していない。機密であるのをいいことに、犯罪に手を出したと思われても仕方ない状況である。 自民党が決着を逃げてきた問題はこの3つに留まらないが、これだけでも十二分に国家の一大事だ。 ●誰がなぜ自民党を信じているのか 今現在の日本社会のキーワードは「信頼」にあるように思う。 「自由民主党という政治団体は信頼できるのか」 「信頼できない行状があるにも関わらず、今も自民党は政権党である。誰が自由民主党を信頼し、支持しているのか」 私思うに、「信頼」の前提条件は「行動が予測可能である」ということだ。 我々が「あの人は信用出来る」という時には基本的に「言っただけのことはやる」という事実の積みかさねという根拠がある。「言う」とは「今からこのように行動する」という言明であり、「やる」とは言った通りのことをすることである。 つまり「言う」の時点で未来の行動をが予測できるということだ。 自分の行動を、周囲から予測可能にすることが、信頼を積みかさねるということなのである。 政権を握った政党といえども「言ったことはやる」を続けなければ信頼を失い、選挙で敗北する。不断の信頼醸成の必要性は、民主主義の独裁制に対する優位性でもある。 民主主義では、候補者が出した公約に対して有権者が判断を下して投票する。選出された政治家は公約に縛られる。なぜなら公約を破れば、次の選挙の当選がおぼつかなくなるからだ。政治家の行動に公約の制限がかかるので、その行動は予測可能になる。予測可能になることで、政治家は信頼を獲得する。 対して独裁者にはそのような制限はかからない。内心で何を考えているかは独裁者本人にしか分からない。それどころか、本人にすら分からないことだってあり得る。 人間は一人一人が異なる多様な生き物であり、神の如く高潔な人物もいれば悪魔の如き卑劣悪辣な人物もいる。人の内面に枷をかけることはできない。しかも高潔な人物でもなにかの拍子に狂うことはあり得る。結果、独裁政治の元では、どんなに愚かなこともどんなに残酷なことも起こりえる。 他方、民主主義においては、公約の枷がかかるので、神の如く高潔な人物でもその内心のままに振る舞うことはできないが、同時に悪魔の如き卑劣悪辣な人物も内心のままに振る舞うこともできない。しかも権力の座には任期があるので、悪魔の如き人物は、多くの場合、信頼を積みかさねるプロセスの途中で躓き、排除される。 ただしそこには2つの条件が付く。「有権者のまともな判断が投票結果に適切に反映する選挙システムであるならば」と「有権者がまともな判断をするならば」だ。 以前も書いたが(「選挙をおもちゃにする人々が教えてくれること」)、私は「有権者のまともな判断が投票結果に適切に反映する選挙システムであるならば」というのがかなり怪しくなっていると判断している。結局のところ、自民党が導入した小選挙区比例代表制は死に票を増やして少数者の意見を切り捨て、独裁をやりやすくするための手段でしかなかった。 死に票対策として導入された比例代表では、党首お気に入りの「ペット」が名簿に入ることになっている。ペットとは党首の無制限の賛美者であるから、これもまた民主主義政治を独裁に近づける手段だ。 もう一つの「有権者がまともな判断をするならば」はどうだろう。少なくとも第2次安倍政権以降、自民党は相当意図的に、まっとうとは言い難いイメージ操作をやってきた。そう私は考えている。