箱根駅伝100回記念を前に、第1回開催の軌跡を振り返る。コースは人力で測定、構想から4カ月で実現。駅伝は、水戸-東京、日光-東京の可能性もあった!
◆地域に支えられている箱根駅伝 専門は違えども、やはり教育者となった孫の彰久さんは箱根駅伝の意義をこう語る。 「金栗さんが五輪に出て途中棄権して、外国選手と比べたら全然かなわないという状況だった。それを何とかしたいという思いが多分、当時のスポーツ界にはあったと思う。そのための選手育成プログラムが箱根駅伝だった」。 そして、それこそが一度限りのイベントで終わるのではなく、次の年も、その次の年も、2回、3回と続き、ついに100回になろうとする伝統の所以(ゆえん)だと指摘する。 澁谷を始め縁の下の力持ちがたくさんいた。彰久さんは「駅伝というものは極めて地域性がある。祖父も地域の方に協力していただいたし、箱根駅伝は沿道の方々の応援に支えられてきた」と語る。 100年以上前、巻き尺でコースを測定する澁谷の手元を照らし、暗闇の箱根山中を駆け上がるランナーたちの足元を照らした光は、今も明々と輝きを放ち続けている。 ※本稿は、『箱根駅伝-襷がつなぐ挑戦』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
読売新聞運動部
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