箱根駅伝100回記念を前に、第1回開催の軌跡を振り返る。コースは人力で測定、構想から4カ月で実現。駅伝は、水戸-東京、日光-東京の可能性もあった!
◆箱根駅伝の構想 翌19年、箱根駅伝の構想が持ち上がる。その創設を巡っては、いくつかのエピソードが残っている。 第1回大会に参加して明大の5区を走った沢田英一は59年12月、大会創設40年に合わせて読売新聞に「第一回大会の思い出」を寄稿した。それによると、きっかけとなるアイデアが生まれたのは19年10月だった。 金栗と沢田、東京高等師範の教員だった野口源三郎が、埼玉県の小学校に運動会の審判員として招かれ、上野駅から乗った汽車の車中で、「今度はどこを走ろうか」と語り合った。 その年、沢田は札幌―東京間と新潟―東京間を、金栗は下関―東京間を走破していた。その場で出たのが「アメリカ大陸横断」の案だった。それ以降、さらに3人で検討し、まず選手選抜のための駅伝を開くことにした。 関東学生陸上競技連盟が89年に発行した『箱根駅伝70年史』によると、東京―箱根のほかに、水戸―東京、日光―東京のコース案もあったとされる。しかし、風光明媚で多くの史跡に富み、宿泊や通信連絡にも便利だとして東京―箱根間のルートに決まった。
◆巻き尺でコースを計測 『70年史』は「この決定の裏には、当時小田原中学校の教師として教鞭をとっていた東京高師卒業の長距離選手澁谷寿光の、コースや中継点についての詳細な調査資料が与って力があったことを見逃すことはできない」と指摘している。 澁谷がどのような経緯で関わり、どのような調査をしたのか、詳細は残されていない。孫の彰久さんや家族は澁谷が生前、コースを計測した思い出を語っていたのを覚えている。 「工事用の巻き尺を使って尺取虫のようにしながらコースの長さを測っていった」「特に小田原から箱根の山を測るのは大変だった。土地の人たちも協力してくれて、提灯をつけて照らしてくれながら、夜まで巻き尺で測った」。 彰久さんが注目するのは、構想が練られてからわずか4か月後に第1回が行われている事実だ。 「実質3か月ぐらいの間に準備をしないといけなかったと思う。日が暮れるのは早い季節だっただろうから、夜遅くまで測っていたのかな」と想像する。 第1回の箱根駅伝がスタートしたのは20年2月14日。当日の大会運営にも携わったようだ。 澁谷は63年、第40回大会を前に読売新聞が開いた座談会に出席し、「その時分は箱根の山は夜通るところじゃなかったし、ヤマイヌが出ると言われていました。それでたいまつをたくのが一番安全でいいだろうというので、生徒につくらせて箱根山に配置したのを覚えています。ところが、(最下位の)慶大が上ってくる頃には、たいまつがなくなっちゃって困りましたよ」と、第1回の思い出を語っている。 澁谷はその後、箱根駅伝のみならず、日本陸上競技連盟の創設にも携わり、審判として活躍した。箱根駅伝では戦後、51年の第27回大会から80年の第56回大会まで30年にわたり審判長を務めた。
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