伝説のルンガ沖夜戦で戦った栄光の駆逐艦のその後、そして敗れゆく日本
太平洋戦争における重大局面とされる日米激突のガダルカナル島の戦い(1942年8月~43年2月)のなかで、ルンガ沖夜戦(42年11月30日夜)では、日本海軍は完勝します。 【写真】ルンガ沖夜戦で損傷したアメリカ海軍のミネアポリス。戦いの壮絶さを物語る。 この伝説の夜戦で、参加した8隻の駆逐艦――高波、陽炎、黒潮、親潮、江風、巻波、涼風、長波――のなかでは、高波が沈みました。 翌年の1943年2月に、日本軍はガダルカナル島から撤退。以後もアメリカ軍の勢いが増していくなかで、親潮、黒潮、陽炎が沈み、夏には、江風(かわかぜ)も沈みます。 太平洋戦争では大和や武蔵といった大艦に多くの視点が向けられますが、「休むことなくいちばん苦闘した駆逐艦」を描かずにいられなかった半藤一利氏(故人)が、残った駆逐艦の巻波、涼風、長波、そして敗れゆく日本の姿を、当時の「悲惨」を体験した方々への取材をもとに、活写します。 ※本稿は、半藤一利著『ルンガ沖夜戦<新装版>』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、それでも駆逐艦の任務は続く
ガダルカナル島(以下、ガ島)の堤防が崩壊してから、濁流の一時に奔流する勢いにも似て、ソロモン諸島の島々の防備線はつぎつぎに破られ、ついにラバウルは孤立しようとした。 昭和18(1943)年9月30日、大本営は、ブーゲンビル島だけはラバウルのもっとも有力な前哨地区であり、かつ敵の進攻阻止のためにも、あくまでも保持せねばならないと決定した。 10月下旬、山本長官戦死(4月18日)のあとをついだ連合艦隊司令長官・古賀峯一大将はラバウルに母艦機を進出させ、連日にわたって一大航空作戦を展開した。いわゆる「ろ号作戦」である。同時に海上部隊も補給に輸送に、また敵輸送船団撃滅をめざして出撃した。 この一連のブーゲンビル島作戦における水上戦闘が11月24日から25日にかけての夜間に起こったのである。 日本部隊はラバウルから920人の陸兵をブーゲンビル西北端ブカ島に揚陸させ、逆に航空要員200名を乗せて帰途についた駆逐艦大波、巻波、天霧、夕霧、卯月の5隻。久しぶりの「東京急行」を迎え撃とうとアメリカ部隊も、駆逐艦5隻の対等の兵力を進出させた。 25日1時4分、アメリカ駆逐艦のレーダーが1万9000メートルで目標を捕捉した。視界きわめて悪く、スコールまじりの海面を、日本部隊は2隻と3隻の2群にわかれ、待ち伏せるアメリカ駆逐艦部隊に気づかず、速力23ノットで近づいていった。アメリカ部隊が先手をとった。それは「駆逐艦士官の夢が実現したような理想的な奇襲攻撃だった」(駆逐艦オズボーン戦闘詳報より)という。 巻波は先頭を行く2隻のうちの2番艦であった。先頭の司令駆逐艦大波とともに夜空に大火柱を何本も上げ、歴戦の駆逐艦は悲惨な最期をとげた。戦死は艦長以下221名、ほとんど全員である。機関長・前田大尉が懸命に猛訓練した応急処置も、このときはついに発揮できなかったと思われる。 前田大尉も駆逐隊生計長・清水主計中尉も、第1次ガ島撤退作戦時に巻波が大破し、舞鶴に帰投、修理中に異動となり退艦していた。「このときに艦を降りたもののほかは、巻波の生き残りはほとんどいないといっていい。恐らく下士官兵を合わせても10人といないのではないかと思う」と前田大尉は淋しそうに回想する。 ルンガ沖夜戦いらいまだ1年の暦日を数えぬままに、すでに高波をふくめ6隻の駆逐艦がソロモン海で沈んだ。残るは涼風と長波の2隻のみとなった。