元気だった娘に突然の余命宣告。震える文字で書いた「ママが一番大好きだよ」これが最後の手紙になった【小児脳幹グリオーマ体験談】
震えながら書いた最後の手紙には『ママが一番大好きだよ』
―― 小川さんが感傷に浸っている間もなく、いろはちゃんはすぐにこども病院へ転院し、放射線治療を開始することになりました。 「その頃はコロナの真っただ中で、私が付き添い入院をしてしまうと病院から1歩も出られず、当時1歳だった三女のお世話ができませんでした。いろちゃんの病気は亡くなるという前提だったので、家族との時間を大切にするために退院して、自宅から放射線治療に通うことになりました。ふだんは仕事で大阪や東京を飛び回っているパパも、病気が分かってからは沖縄に残り、いろちゃんとの時間を過ごしていました。 本人には『病気になっちゃっているから治療しよう。落ち着いたらまた学校に行こうね』と言い、小児がんだということは最後まで伝えずに治療をしました。いろちゃんは、放射線治療の『においが嫌だ!』と、最初はとても嫌がっていました。しかし、そのうちに右半身まひが起こり、本人も治療に通わなければならないと感じたようです。顔面まひ、右半身まひ、だんだんと不自由になってゆく体を、私が支えながら通院していましたが、娘の体重をだんだん支えきれなくなり最終的には車いすを使っていました。 治療中のいろちゃんは、生真面目な性格と思春期に差し掛かる年齢があいまって、知っている人に今の自分を見られたくないという気持ちが強かったので、『友だちに会いたい』とか『学校に行きたい』という言葉はあまり口にしませんでした。また、顔面まひでこわばっているいろちゃんの顔を見た小さい子に『怖い』と言われたことがショックで、ショッピングモールなどの人が多い場所も避けるようになりました。 それでも、慣れない左手を使ってごはんを食べたり、料理を作ったり、震える文字で勉強したり、右手でボールを持ってリハビリしたり、『元の生活に戻れるように治すんだ』という気持ちを持って一生懸命に努力をしていました。 長女は毎日のようにいろちゃんの学校の友だちからの手紙を預かって帰ってきました。いろちゃんは自分の震えた字で返事を書くのが嫌だったので、長女にipadで返事を入力してもらい、それを印刷して手紙の返事をしていました。しかし、亡くなる1カ月前の私の誕生日には、震えながら書いたヨレヨレの文字で『ママが一番大好きだよ』と手紙をくれました。それが最後の手紙になりました」(小川蘭)