大大阪から輝き続ける大動脈 御堂筋 昭和100年 まちの今昔
来年は「昭和100年」。社会インフラから地域を代表するスポットまで、昭和は現代に続くまちの基礎が形作られた時代でもある。関西各地のさまざまなスポットの今昔を見ながら、まちの未来を展望する。 【今と昔で比べる】拡張工事前と現在の淀屋橋 大阪の歴史を語る上で欠くことのできないのが「大大阪」時代。大正から昭和にかけ人口211万人を超え、東京市(当時)を上回る日本一の大都市に発展、輝きを放った。その大阪の近代化を象徴する存在が御堂筋だ。キタから中之島を抜けミナミへ至る約4キロの道程は、まちの発展と歩調を合わせてきた。「大阪人の熱い息吹」が聞こえてくる。 ■幅はたった6メートル 御堂筋を難波から北上する。にぎやかな道頓堀界隈(かいわい)を抜けると、有名ブランド店が目立つ心斎橋。本町近辺から重厚なビルが並ぶビジネス街へと変わる。大阪のメインストリートは表情豊かだ。 しかし、100年以上前の御堂筋は違っていた。幅約6メートル、長さ約1・3キロ。狭く、短い道だった。 変化の端緒は大大阪時代の到来だ。明治維新以降、産業都市として成長した大阪市は人口増に伴い、新たな都市改造に迫られた。 音頭をとったのは第7代市長、関一(せきはじめ)。市役所の移転で中之島に大阪の重心が移動したのを機に、御堂筋の〝巨大化〟に乗り出す。 大正15(1926)年に着手し、11年後の昭和12年に完成。道幅は44メートルになる。沿道にはモダンなビルが連なり、先行開業した地下鉄(梅田-心斎橋間)は市民の行動範囲を広げた。 「無秩序な発展を防ぐための都市計画だった。粘り強く沿道住民を説得し、拡幅地を確保した」と大阪歴史博物館の学芸員、阿部文和さん。「飛行場でも作る気か」と渋る住民を口説くため、昭和天皇行幸にちなんで「御幸通り」に改称する案まであったというエピソードも残る。 「道頓堀で芝居、心斎橋で買い物や食事を楽しむ。新しいライフスタイルが広がる時代」になった。 ■財界人の心意気