もしも残っていたならば…戦災で焼けた「7棟の天守」を振り返る 79年前の無差別攻撃を忘れないために
だが、それ以来、330年余り建ち続けていたこの天守は、昭和20年5月14日未明の名古屋大空襲で、B29爆撃機による焼夷弾攻撃を受け、炎上してしまった。このとき天守には、空襲に備えて金の鯱を避難させるための足場が組んであった。運悪く、焼夷弾がその足場に引っかかり、そこから火が天守全体に燃え広がったという皮肉な話が伝わる。 このとき天守のほかにも、二条城二の丸御殿とならんで桃山時代の武家風書院造を代表していた本丸御殿をはじめ、当時の国宝に指定されていた建造物24棟のうち、20棟が焼失した。これらの歴史的建造物が現存していたら、名古屋城はまちがいなく世界遺産に登録されていただろう。
以後、天守の受難は続く。6月29日未明には、岡山市が大規模な空襲に見舞われ、市内の73%が焼失。岡山城天守も焼け落ちてしまった。
現存する12の天守に、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前に建てられたと断定できるものはない。近年、犬山城(愛知県犬山市)の天守に使用されている木材の伐採年を年輪年代法で測定し、天正13~16年(1585~88)という結果が出た。このため、関ヶ原合戦をさかのぼる可能性があるが、確定はしていない。一方、5重6階の岡山城天守は関ヶ原合戦以前に、豊臣政権の五大老の一人だった宇喜多秀家が建てたことが確実だった。その姿も、400年以上前に焼失した織田信長の安土城や秀吉の大坂城の面影が色濃い、きわめて貴重な歴史遺産だった。それが一瞬にして焼失したのである。
御三家の天守も大坂城譲りの広島城も
7月9日に和歌山市を襲った大空襲では、紀州徳川家の居城だった和歌山城の天守が焼失した。3重3階の大天守と小天守が連結し、さらに長屋式の多門櫓を介して二つの2重櫓が結ばれた建造物群が残されていたが、すべて失われた。江戸末期の嘉永3年(1850)に再建されながら、江戸初期の様式を色濃くとどめる気品ある建築だった。
比較的あたらしい和歌山城に対し、7月29日に焼失した大垣城(岐阜県大垣市)の4重4階の天守には、長い歴史があった。 元和6年(1620)に大きく改修されたという記録はあるが、創建は関ヶ原合戦以前にさかのぼる可能性が高かった。関ヶ原での決戦前に、西軍の石田三成らが大垣城を拠点にしていたことはよく知られるが、そのときに存在していた可能性がある天守だった。