童話「桃太郎」はハッピーエンドか?一瞬で「悲劇の物語」に変える衝撃のコピーが目からウロコだった!
物語は、客観的な構成要素である「ストーリー」と主観的な文脈である「ナラティブ」の2種類に分けて捉えることができる。桃太郎の「めでたしめでたし」も、立場を変えて見ると、実は悲劇でしかないことに気づかされるのだ。ちょっとした物事から無限の物語が生まれる可能性があるという、「気づき」で心が豊かになれる一冊を紐解く。本稿は、堤 藤成『ハッとする言葉の紡ぎ方 コピーライターが教える31の理論』(祥伝社)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 物語は1つのストーリーと 無数のナラティブに分かれる エッセイ的に視点を紡いでいくこと。それは、自分の「物語」を紡ぐことかもしれません。「物語を紡ぐ」なんて書くと、いきなりハードルが高く感じられるかもしれません。ですが、物語には2種類あります。 「ストーリー」と「ナラティブ」です。 いわゆる「ストーリー」とは、起承転結やあらすじなどの「客観的」な構成要素です。これは一般的に浸透しているし、理解しやすいと思います。 対する「ナラティブ」とは、それぞれの個人の視点から語られる「主観的」なものです。それは、「ナレーター」の語源でもあります。ナレーターも、ある視点から物事の様子を語っていきます。「自分の物語を紡ぐ」とは、自分の生きてきた人生や、今やりたいことをあなたの視点でまさにナラティブで語ることなのです。 例えば、「とある親子が、花火を見に出かけた。会場となる河川敷に向かう途中、父は息子を肩車した」。これは、単に起きた出来事を客観的にストーリーとして語っているだけの文章です。しかしこの客観的なストーリーを、父親目線のナラティブで語るとこうなります。
あれは息子が小学1年生になった年だった。花火を見たいという息子を連れ、会場に向かった。 会場となる駅で降りると、想像した以上の人混み。ゾロゾロとした行列で少しずつしか前に進まず、なかなか会場まで辿り着けない。もうすぐ花火が上がる時間だ。焦ってスマートフォンで時刻を確認する。 ドッカーン!パラパラパラパラ……。 ああ、もう花火が上がり始めてしまった。周りで歓声が上がるなか、この混雑した行列にいると、息子の背丈ではちゃんと花火が見えない。不満そうな表情の息子。父として、悲しませたくない。腕にグッと力を入れ、息子を抱き上げ肩車した。 そういえば、息子が小さい頃はよく肩車していたな。今は、想像以上にずっしりと肩が重い。ああ、こんなに大きくなったのか。肩にかかる重みを、少し誇らしく感じた――。 ● 「めでたし」で終わる桃太郎も 立場を変えれば悲劇の物語に 単に「息子に花火を見せるために父が肩車した話」が、ナラティブとしてその個人の視点から語られると、急に感情移入できるようになると思いませんか。またナラティブは、個人の主観によるものだからこそストーリーは同じでも、語り手によってまったく別の風景が立ち上ります。