日大三・國學院久我山・堀越……西東京の群雄割拠が井口資仁、井端弘和ら名選手を生んだ!【東西東京大会50周年物語④】
世紀をまたいで起きた新時代のうねり~新監督が続々就任、早実の移転~
東東京大会と西東京大会が始まった74年は、東が92校、西が82校だったが、80年の第62回大会で東が106校、西が107校と逆転した。そして95年の第77回大会では東が117校、西が145校と差が開いた。多摩ニュータウンなど多摩地域の宅地開発の影響が大きいが、都立校を中心に軟式から硬式に移行したことも要因の一つである。私立では八王子実践が85年に軟式から硬式に移行している。 こうした状況を受け、西東京であった世田谷区の学校が東東京大会に移動することになった。これにより、国士舘や駒大高が東東京大会に移行した。そして96年の第78回大会は、東が138校、西が124校になった。 新たな世紀が始まろうとしていたこの時代、東京の高校球界では大きな変化があった。まず82年のセンバツの準優勝投手である市原勝人が、96年に母校・二松学舎大附の監督に就任した。また夏は85年以降甲子園から遠ざかっていた日大三は97年、関東一の監督として実績を残しているOBの小倉全由が監督に就任した。日大三の理事が関東一に頭を下げて実現したものだった。2000年には、小倉の教え子である米澤貴光監督が関東一の監督に就任している。さらに01年には早稲田実が新宿区から国分寺市に学校を移転したのにともない、東東京から西東京に移った。 日大三も76年に東から西に移っているが、これは東西東京大会が始まって間もない時期だった。ほかにも広い敷地を求めて、東東京のエリアから西東京に移った学校はあるが、第1回大会の東京代表であり、王貞治や荒木大輔らを輩出した名門中の名門の移動は、インパクトが非常に大きかった。21世紀の東京の高校野球は、まさに新時代を迎えていた。 《2006年夏にあった斎藤佑樹“もうひとつの激闘”!早稲田実vs.日大三、西東京大会決勝【東西東京大会50周年物語⑤】に続く》