日大三・國學院久我山・堀越……西東京の群雄割拠が井口資仁、井端弘和ら名選手を生んだ!【東西東京大会50周年物語④】
小野和義(創価)vs.武田一浩(明大中野)、ドラ1投手の投げ合いが実現
都立国立が西東京優勝した翌年である81年は、國學院久我山と日本学園が決勝戦で対戦し、國學院久我山が勝って夏の初出場を決めた。翌年の決勝戦は日大二・日大三の伝統校対決になり、2-0で日大二が勝ち甲子園大会出場を決めた。甲子園で日大二は1回戦で八幡大付(現九州国際大付)と対戦。6回裏で2-4とリードされていたが、雨でノーゲーム。再試合は9-6で勝った。2回戦はこの大会を猛打で制した池田と対戦し、善戦したが3-4で敗れた。 83年の西東京大会は、創価の小野和義が140キロを超える速球を投げ、「江夏2世」として注目された。今日の感覚だと、140キロは速いけれども、それほど珍しくないかもしれない。日本でスピードガンが本格的に導入されたのは79年ごろと言われる。この年の『週刊朝日』の甲子園大会号には、『うわさの本格派をスピード・ガンで追う』という記事がある。その記事によれば、中日にドラフト1位で指名される当時浪商(現大体大浪商)の牛島和彦が134キロ、広島に1位指名される当時広島の府中東の片岡光宏が135キロとなっている。計測した試合の速度ではあるが、改めてみると、その程度だったのかという感じがする。それでも140キロというのは、当時としては大変な球速であるのは確かだ。 その小野にライバルが現れた。猛打で夏春連続優勝を果たしたばかりの池田と5月に練習試合を行い、4安打完封したという明大中野の武田一浩だ。2人は準決勝で対戦し、白熱の投手戦になった。結果としてはエラーによる失点が響き、3-1で創価が勝った。小野はドラフト1位で近鉄に入団する。武田は明大のエースとして活躍した後、ドラフト1位で日本ハムに入団する。高卒、大卒の時差はあるが、ドラフト1位同士のハイレベルな戦いであった。 明大中野を破った創価は、甲子園初出場を果たす。68年に創立した創価は、それまでベスト16が最高成績だった。小野の好投から西東京の強豪としての歴史が始まった。なお初出場の甲子園では初戦で京都の東山に敗れている。