日大三・國學院久我山・堀越……西東京の群雄割拠が井口資仁、井端弘和ら名選手を生んだ!【東西東京大会50周年物語④】
甲子園が息を呑んだ東亜学園・高平と上宮・元木の“魂の真っ向勝負”
秋の大会になって東亜学園の公式戦出場が認められた。しかし1次予選の初戦で都立日比谷に敗れる。当時は春の1次予選はなかったので、秋の1次予選の初戦で敗れた東亜学園は、夏まで公式戦がなかった。 公式戦の実績がなかったため、ほぼノーマークの東亜学園だったが、先輩たちの無念を身近でみていたエースの高平幸治が奮起。西東京大会の準決勝で國學院久我山、決勝戦で堀越を破り、甲子園出場を決めた。 甲子園に入っても高平は、1回戦で土佐を被安打4で完封。2回戦で選抜準優勝の上宮と対戦した。 試合は両チーム無得点で8回裏の上宮の攻撃。この回一死二、三塁で4番の元木大介を迎える。巨人では曲者と言われた元木だが、高校時代はこの世代を代表する強打者であった。それでも東亜学園は、敬遠はまったく考えていなかった。2球目はレフトに大きな打球。ファウルにはなったが、ヒヤリとする場面だった。それでも高平は真っ向勝負を挑んだ。フルカウントになっても勝負は続き、元木はライトに痛烈なライナーを放つ。あまりにいい当たりだったため三塁走者が飛び出し、タッチアップはできなかった。しかし続く5番・岡田浩一の左前安打で上宮が1点を先制し、逃げ切った。 高平の元木に対する真っ向勝負は、球場全体が息をのむ名勝負だった。 あの夏以来、東亜学園はまだ甲子園に行っていない。それでも昨夏はあと少しのところまで行ったし、OBの細野晴希がドラフト1位で日本ハムに入団した。88年の夏、東亜学園は戦うことなく3年生は引退した。しかし彼らが真剣に練習を続けてきたからこそ、89年夏の名勝負があり、その後の歴史がつながったのである。
井口資仁は國學院久我山で、井端弘和は堀越で甲子園出場
東亜学園が出場停止になっていた88年の夏、堀越が13年ぶりに西東京大会を制した。堀越を甲子園に導いたのは、84年に監督に就任した桑原秀範だった。桑原監督は82年夏の甲子園大会で広島商の監督として準優勝している。桑原監督時代の堀越は、しっかり守りを固め、機動力野球を展開する広島商の野球であった。 堀越は桑原監督の下、夏は88年に続き、93年と97年に甲子園に行っている。93年のメンバーは1番・遊撃手が侍ジャパン監督の井端弘和、2番・三塁手が昨年堀越の監督に就任した野口晃生だった。この年は1回戦で西条農と対戦。野口のスクイズにより1-0で勝っている。しかし2回戦は鹿児島商工(現樟南)に0-3、8回雨天コールドという不運な形で敗れた。97年はその年のドラフトでヤクルトに1位指名される敦賀気比の三上真司に2安打に抑えられて完封負けしている。 90年の夏は、日大鶴ヶ丘が東京を代表する速球投手・難波俊明を擁して初出場を果たした。甲子園では初戦(2回戦)で松井秀喜が1年生ながら4番を務める星稜を7-3で破り、3回戦は徳島商に5-3で勝ち準々決勝に進出。準々決勝では広島の山陽に2-4で敗れたが、存在感を示した。 91年は国士舘がセンバツで準決勝に進出したが、夏は早々に敗れた。西東京大会の決勝戦は國學院久我山と世田谷学園の対戦になり、7-4で勝った國學院久我山が2回目の出場を決めた。このチームの3番・遊撃手は、前ロッテ監督の井口資仁だった。國學院久我山は初戦に池田と対戦。2年生の井口は3打数1安打だったが、4-5で敗れた。 92年は創価がノーシードから勝ち上がり、9年ぶりの優勝を決めた。甲子園では1回戦で熊本工に3-4で敗れている。それでも創価は、94年、95年と続けて甲子園に行っている。2年間ともエースは大木一哉だった。94年のメンバーの遊撃手は現在部長の片桐哲郎だった。この年は1回戦で星稜を3-2で破り、2回戦は片桐の本塁打などで東農大二に3-2で勝ったが、3回戦で柳ヶ浦に0-5で敗れた。95年は大木が初戦(2回戦)で京都成章を被安打4、失点2に抑え、4-2で勝ち、3回戦は下関商を被安打3の完封により6-0で勝ち準々決勝に進出した。準々決勝は既述のように帝京との東京対決になり、3-8で敗れた。 西東京大会の最初の20年ほどは、毎年のように優勝校が変わる群雄割拠の状況であった。そうした中から、その後、井口や井端のように、その後、球界を代表する選手が育ったことは、特筆すべきことだ。