「“わからない”を小説で問う」木下昌輝×朝井まかて『愚道一休』
作家の死生観と作品の現代性
――ところで朝井さんの小説は、主人公の死で終わるという形をほとんどとらないですよね。老いるんだけど、死ぬまではいかない。 朝井 そういえば……そうかも(笑)。べつに主義があるわけではないんです。主人公が死ぬ瞬間を書こうとしたら、言葉では紡げない部分がありますよね。それをどう紡ぐかに、まだ挑戦してないだけですね。いずれ挑戦します! 木下 まかてさんは、死についてどう考えてるんですか。僕は、ちょっと「救い」みたいにも思ってるんですけど。 朝井 私もそう思う。だから、木下君の『人魚ノ肉』の書評でもそう書いた。死は救いでもある、って。 木下 僕は死を書くのが大好きなんです。そこってファンタジーじゃないですか。死ぬ瞬間を経験した人に話は聞かれへん。経験した人はみんな死んでもうてるんで。僕、幼稚園の頃、起きてるときと寝てるときの境目を必死に記憶しようとしてたことがあったんです。けど、起きたら覚えてないっていうのが、すごいもどかしくて。それは生と死の境目とも似てるんかなとか思ってた。 朝井 見直したわ、幼稚園の頃のあなたを。 木下 幼稚園の頃は仏性を身に付けてたんで。 朝井 人間は仏性を持って生まれてくるんよね、きっと。で、少しずつ失われていく。 木下 どんどんわからなくなっていくんですよね、みんな。 朝井 でも私は、老いて、いろんな罪をいっぱい犯して、周りにも嫌われて、という人間が大好き。曲亭馬琴 ( きょくていばきん ) のような人も、周りにとったら、ほんま迷惑やけど、書く分には楽しいてしかたない。 木下 『秘密の花園』の馬琴もそうですけど、まかてさんって老醜をコミカルに書くのが本当にうまいですよね。 朝井 そう? 自覚ないけど。 木下 嫌なところを前面に出して書くこともできるけど、あえてユーモアでまぶすというか、フィルターをかけるというか? 朝井 いや、そういうことはしない。嫌らしいものは嫌らしい、罪は罪。けど、なんかそんなところも可笑 ( おか ) しいやん。無様さも。そやから、筆先に可笑しさが浸潤してくるのよ。その感覚だけは自覚がある。 木下 『朝星夜星』にしても『ボタニカ』にしても、書かれてる男の人は煩悩だらけ。現代の観点からしたら人間的にあかんことばっかりしてますよね。 朝井 ほんまに、どの人もこの人もやらかすねん。でも書こうと決めたら、非道徳的な面にも踏み込みます。業 ( ごう ) や煩悩こそ、書き甲斐があるもんね。 ――歴史小説といっても書いてる作家は現代の人で、読んでる読者も現代の人なので、現代性というものからは切り離せないと思うのですが、そのあたりはどう思われますか。 朝井 現代人である作家が書いていて、読者も現代人ですから、現代性はその響き合いで十分かなと思っています。現代に投げかけようと意識すると、たくらんだ感じになってしまうといいましょうか。過去の、ある個人の物語であればこそ、時代を貫ける。ただ、まさに現代が抱える闇や苦悩を歴史に見るときがあって、背筋が震える瞬間はあります。