「“わからない”を小説で問う」木下昌輝×朝井まかて『愚道一休』
禅と創作
朝井 大阪では珍しいんですけど、うちは実家が臨済宗なんです。妙心寺 ( みょうしんじ ) 派。そやから親しみはあるけど、文章で禅に取り組むには一生でも足りへんと思って、よう近づかんかったわけです。だから、木下君、すごい肝玉してるなと思って、どんな小説になるのかめっちゃ楽しみにしてました。 木下 そうだったんですね。ご実家が臨済宗ということは、お葬式とかも? 朝井 ええ。しかも夫の実家は曹洞宗。だから、いろんな宗派のお葬式に行くとですね、今日のお坊さんのお経よかったなとか、今日のはまだ声が練れてないとかを批評し合う、ヤな夫婦(笑)。でも現代のラップにしたって、お経の遺伝子もあるよね。いかに伝えるか、耳に馴染んでもらうか、口に出してもらうか。すると当然、演者の巧拙も出てくる。 木下 うちの妻がお寺の娘なんですけど、歌がうまいんですよ。喉がいい。 朝井 お経で喉を鍛えられてるんやねえ。 木下 お経をひたすら読んでると、トランス状態になるとか言うじゃないですか。お経じゃないですけど、東大寺のお水取り(修二会 ( しゅにえ ) )とか、諷誦文 ( ふじゅもん ) という儀式があって、闇の中、祈願をひたすら呪文のように唱えるんですけど、そういうのを見てるとトランス状態みたいになるって言う人もいますね。 朝井 『愚道一休』にも出てきますよね。トランス状態よりもさらに進んでしまった「禅病 ( ぜんびょう ) 」が、すごくリアルに描かれてる。 木下 取材させてもらった臨済宗のお坊さんも、同期の人が精神的に追い詰められて亡くなったとおっしゃってました。『敵の名は、宮本武蔵』を書いたときに、妙心寺の塔頭 ( たっちゅう ) を取材させてもらったんですけど、禅をなめないでください、私らは命懸けでやってるんですと言われたこともあります。 朝井 修行で籠もって下界に下りたら世界の色が違って見えたと、私も聞いたことがあります。 木下 すごいですよね。だって、武蔵が命懸けで試合するのはまだわかるじゃないですか。自分の技術と相手との駆け引き次第で死ぬことはないかもしれない。でも、臘八接心 ( ろうはつせっしん ) (不眠不休で七日七晩坐禅を組む)なんかは、駆け引きとかじゃないじゃないですか。 朝井 倒すべき相手がいる場合は、斬って捨てたらそこで終わる。けど、己自身と向き合う闘いは果てがない。この『愚道一休』の“愚道”は、まさに私たちにとっての創作の道にも通じますよね。 木下 そうかもしれないですね。 朝井 途中にいっぱい落とし穴があって、突き詰めたら、それこそ禅病みたいになったりする。命を落としてきた作家も実際にたくさんいるわけで。だから小説の道と重なって、身につまされました。 あと、この小説の書き方で感じたのは、技巧に凝ったり構造を複雑にしてないこと。木下君はさっき、“わからん”から入っていったって言うてたけど、ああ、なるほどなと思った。理解しがたい、正解のないことを一所懸命悩みながら書いていってるから、一休の人生が時系列で書かれてるんやね。その、真っ向勝負の挑み方がよかった。技巧や構造に頼ってないから、一休という人間がそのときどきに切実なる苦悩を抱えて、それこそ自殺未遂をしたりもして、でもそうしながらも生きていく姿が真っすぐに書かれてる。つまり禅でいう修行ってそういうことなんでしょうね。いかなるときでも平気で生きるということ。まさにその愚かなる道が、この作品には書かれてあった。 木下 ありがとうございます。たしかに言われたらそうですね。一章で取り上げた「趙州無字 ( じょうしゅうむじ ) 」(犬に仏性 ( ぶっしょう ) があるかないかという公案)も、どういうことなんやろうと考えながら、自分が思いついたことをそのまま書いたし。僕、執筆の途中から、箕面 ( みのお ) の妙心寺派のお寺で作務 ( さむ ) をさせてもらったり、坐禅を組ませてもらったんです。今も続けてるんですけど、それでちょっとだけ禅のことがわかっていったかもしれないです。 朝井 なぜって問いながら書く状態、同じ書き手としてよくわかる。 ――なぜって引っかかるところがないと、題材として取り上げる気にならない? 朝井 そうですね。謎や引っかかりがあればこそ腕まくりをします。木下君はどうですか。 木下 僕もそうかもしれないですね。わからんまま書いて、最後にわかって冒頭を直したりもする。 朝井 一緒やわ。でもなんか、書いてる途中に、あっ! て思う瞬間があるでしょう。その一瞬があるから、こんなしんどいことでもやめられへん。やっぱり好きなんやね、書くことが。 木下 僕はあんまり、その一瞬はないんです。『絵金』も書いてる最中は絵金という人間が全然わからんかった。でも書き終わって何年かした後、しまった、これ書いといたらよかったみたいな、ふとした瞬間に見えてなかったものが見えるようになることはありますけど。 朝井 わかります。書き手にはそのときそのときの心の尺がある。執筆のキャリアだけじゃなくて、ちょっとずつでも人生を重ねているわけで、解釈、表現法も全然違ってくる。昨日と今日とでも違う。だから私、あまり自分の過去の作品を読み返せない。時間が経ってるものは、逆にちょっと愛おしかったりもしますけどね。