「“わからない”を小説で問う」木下昌輝×朝井まかて『愚道一休』
小説の技法と方言
――木下さんは今まで、わりと技巧的な書き方をされてきたじゃないですか。『敵の名は、宮本武蔵』なら、敵の視点という搦め手 ( からめて ) で宮本武蔵を書くといったように。先ほど、朝井さんも指摘されていましたが、今回はそういう技巧を捨てられたのかなと思いました。 朝井 得意なことを封印して挑んだんでしょう。武器を手放すって、なかなかできませんよね。怖いもの。でも徒手空拳で臨んだから小説が身体的になり、肉声を持ち、おのずと禅の修行になっている。技巧で観念を書こうと思ったら、木下君ならきっと書ける。それをしなかったのは潔いなと思いました。こんなに邪心だらけの男が(笑)。 木下 誰が邪心だらけですか(笑)。でも、おっしゃるように最初は『敵の名は、宮本武蔵』みたいな構造にしようと思ってたんです。正直、それをしたら楽じゃないですか。一休という存在がわからないということを、そのまま書けるから。 朝井 周りの視点で書くと、一休本人の心情も伝聞になるもんね。掘り下げに限界が出る。 木下 けど、それはやめたほうがいいんじゃないかと編集者に言われた。コロナがあって取材も思うようにできなくて、逃げ道をふさがれて仕方なく正面から取り組んだようなところはありますね。 朝井 逃げ道をふさがれてよかったよ。禅を中心に据えるという時点で、単純に敵や味方という配置は使えないわけじゃないですか。けど、木下君の筆ってもともと策略家とか、ただ者ではない邪悪な人間を書かせたら絶品なわけで。だから赤松越後守 ( あかまつえちごのかみ ) や山名宗全 ( やまなそうぜん ) 、養叟との信頼関係や相克の描き方も冴 ( さ ) えてました。でも小説の魂は、一休自身の視点で書いたことで生まれた。彼が愚直に生きた道を木下君も共に生きたよね。だから読み応えがあったし、本人は仕方なくとか言うてますけど、作家としての充実にふさわしい題材を選ばはってんなあと思います。……しまった、ちょっと褒めすぎ? 木下 ええんですよぉ、正直に言うてもらって! 朝井 実は私、ゲラが届いてわりとすぐに読んだんです。対談までだいぶ間が空いてしまったから昨日改めて読み返して、気になるところに付箋を貼ってきた。 木下 え、怖っ! めちゃくちゃいっぱい貼ってあるじゃないですか! ちょっと合評してくださいよ。文校時代を思い出して。 朝井 ほな、いきます。まず、このプロローグは美しいと思いました。 木下 ありがとうございます。 朝井 後で付け足しましたか。 木下 後です。 朝井 やっぱり。 木下 いいじゃないですか別に、いつ書こうが。 朝井 そうよ。これは全部書き終えて、何かをつかんだ後でないと書かれへんプロローグやなと思ったの。 木下 まさにそうです。 朝井 あと、「師兄 ( すひん ) 」とか唐の音もちゃんと入れてあるのがよかった。でも、セリフに時代性や地域性、役割性が出てきてないのはちょっと残念でした。 木下 なるほど、京都弁とかですか? 朝井 公家言葉とか。あと、堺には堺弁があるじゃないですか。木下君、関西人やから書こうと思たらできたんとちゃうの。 木下 当時の関西弁って、わからないじゃないですか。 朝井 わからへんでしょうよ。だから、それを作るんでしょうよ。 木下 僕、あんまりそれはしたくないんですよね。江戸時代とかやったらいいんですよ。船場 ( せんば ) 言葉とかありますもんね。でも一休が生きた時代って、ほんまに今みたいな関西弁しゃべってたんかなっていう疑問があって。僕は京都弁とかも、戦国時代より前ではあんまり使いたくないんですよね。 朝井 なるほどね。自分で考えて作りたくもない? 木下 なんか作りたくないんですよね。 朝井 そこは人それぞれなんで、これ以上は追い込みませんけど。でも、池波正太郎さんの戦国物で三河弁が出てくるんやけど、すごくチャーミングで好きですけどね。 木下 三河弁はいいですよね。尾張弁をしゃべってる織田信長とかもかっこいいなと思います。 朝井 そやろ? よろしければ今後の作品でご検討いただけましたら幸いでございます。 木下 はい、ちょっと検討するようにいたします(笑)。 ――一方で朝井さんの作品には、多彩な方言が入っていますよね。 朝井 それはもう、ほんまに好きでやってます。私自身、心の中では「いけねえ!」じゃなくて「あかん!」と叫んでるわけで、言葉と感情のつながりはスルーし難いんですよね。あとは、昔より方言が嫌われなくなったのもありますね。 ――津本陽さんの『下天は夢か』で、織田信長が「みゃあみゃあ」しゃべってから受け入れられるようになったと思います。 朝井 私、大学生のときに読んで感動したんですよ。人間が生き生きと感じられて。 木下 大阪弁でいう「いとさん」みたいなのを入れるのは面白いかなとは、ちょっと思いますね。でも京都なんかやと、それこそ花街の言葉とか、職業によって違ってきたりするじゃないですか。凝りだすとすごい沼にならないですか。はまったら抜けられないというか。これは読者に通じひんやろっていう言葉もあるし。 朝井 方言には時代と環境、生活と人格が籠もってるもんねえ。だから私は自分で水底を作るの。これ以上は沼らないという底。正確さだけにこだわったら一生かかるし、音をそのまま文字化しても小説言語としては成立しない。だからかっこ付きで説明入れなあかんくらいやったら、使わない。あ、でも翻訳もののようにルビで多重音声はやってみたいかな。やるかも。