シカゴが語るブラス・ロックの真髄、ジミヘンやマイルスとの交流、日本への特別な想い
ジャズの原体験、ホーンセクション誕生秘話
─あなたはトロンボーンを吹き始めた頃、ジャズのトロンボーン奏者から多くを学んだと聞きました。特によく聴いて研究した曲や、影響されたプレイヤーを教えてもらえますか? ジェイムズ:大勢いたが、演奏し始めてまず影響を受けたのはJ.J.ジョンソンだ。彼が初めてトロンボーンをクールな楽器にしたプレイヤーだったと思う。当然、それ以前にも素晴らしいトロンボーン奏者はいたわけだが、J.J.のスタイルが僕には一番訴えてきたし、心を掴まれた。彼が吹くと、トロンボーンはとびきりカッコ良くて、すごい音を出す楽器になった。10歳か11歳の時、父親がJ.J.ジョンソンのレコードを持って仕事から帰ってきたんだ。その父は12年間ピアノを弾いていたんだが、当時は同世代の音楽を弾いたり、他と違うことをするのはあまり正しいと思われていなくて。結局は堅苦しいクラシックを弾くことが楽しめず、プロとしての音楽の道を諦めてしまった。そんな父だったので、僕がトロンボーンを吹き始めたことをとても喜び、ミュージシャンの道に進むかもしれない、という時にも応援してくれた。若い頃の僕にとっては、父がメンターだったんだ。 夕食後、居間で父は毎晩のようにアルバムをかけてくれた。カウント・ベイシー、スタン・ケントン、ウディ・ハーマン、ジェラルド・ウィルソン……そこにある日、J.J.ジョンソンが加わったんだ。僕はまだ楽器を吹き始めたばかりだったから、全然将来プロになるなんていうレベルじゃなかった。ある日、父に「2階に来て、驚かせることがあるから」と言い、J.J.のアルバムをターンテーブルに乗せると、それに合わせて1音も間違わず演奏してみせた。もちろん.J.J.ほどうまかったわけじゃないけど、それがJ.J. ジョンソンだとわかるくらいにはコピーしてたんだ。父は涙を流して喜んでくれた。J.J.ジョンソンのトロンボーンを完コピする息子を見て、「この子は音楽の道に進むかもしれない」と思ったんだろう。そして実際、僕はデポール大学に進み、自分のクインテットを結成し、シカゴ中で演奏をした。その頃の僕のスタイルと演奏はJ.J.ジョンソンの影響を大いに受けていたと思う。 他にもアービー・グリーン、カール・フォンタナ、フランク・ロソリーノ……もう少し経ってからはビル・ワトラスなども聴いた。僕のスタイルはそういった多くの素晴らしいトロンボーン奏者たちから受けた影響が混じり合った結果だと思う。それは演奏に限らず、作曲やアレンジに関してもだ。トロンボーンは単音楽器なので、作曲をするには表現が限られてしまう。それで第二専攻楽器としてピアノを選び、ポリフォニーやコード構造、曲の構成を学んだ。それによって、頭の中で聞こえていたリズムセクション、リード・ヴォイス、ボーカル、歌詞、コードアレンジを全て表現できるようになったんだ。ポリフォニックな楽器であるピアノの特性のおかげでね。コンポーザー、アレンジャーとしての側面が増すにつれ、それは僕の演奏自体にも影響を及ぼした。それまでとは違う方向にトランペットで向かうインスピレーションになったのさ。 楽器を演奏することに関して一つ言えるのは、「これで全てがわかった。完全に楽器をマスターした」と言える日は永遠に訪れないんじゃないかということ。それが向上の鍵だ。常に成長の余白は残っているし、その楽器に費やした時間と同じ分しか、技術は習得できないんだと思う。やればやっただけうまくなるし、良い音楽を聴けば聴いた分、インスピレーションを得られる。音楽は無限に広がるダイナミックなものだ。ライブですごい良い演奏ができて、自宅に帰っても練習し「準備万端。全てやれることはやっている!」という気分になることがある。でもそのすぐ後に、ものすごいアーティストの演奏を耳にして「なんだこれは?! どうやってこんなことをしてるんだ?! まだまだ僕には学ぶことがある。先は長い……」と、一気に自分の身のほどを知るのさ。自分は全部わかったつもりでいても、それ以上のことをやってる人たちが世間には大勢いるわけだから。 ─初期のシカゴはロックとクラシック、ジャズ、ブルース、ソウルなど、あらゆるジャンルをミックスしていましたよね。それらの要素を混ぜ合わせていくのは、主に誰が中心になってやっていたんでしょう。 ジェイムズ:バンドの中心メンバーは、僕と同じデポール大学で音楽を学ぶ学生だった。ホーンセクションがリード・ヴォイスのロックンロール・グループを作ろうという考えのもとに僕らは集まった。単にバックに徹する、お飾りのようなホーンセクションではなく、メロディアスなアプローチを持つサウンドにしたかった。そしてどういうわけか、それがなんであるかを見つける役を僕が任されたんだ。強力なリズムセクションと3人のホーン奏者が単なる伴奏としてではなく、メロディを奏でて、主役となる音楽。ブラスの要素が不可欠の音楽にするにはどうすべきかを考えた。リズムセクションを録音したデモに合わせてハミング、またはトロンボーンでメロディラインを考えた。ボーカルがメロディを歌う時には、ホーンセクションは一歩下がるが、ボーカルがブレイクをとる時はホーンがリード・ボーカルの役になる。だからシカゴの曲からブラスを取り除いてしまったら、同じ曲だとは思えないと思うよ。 ─あなたがアレンジを一手に引き受けていたんですね? ジェイムズ:ああ、気づいたらそれが僕の役割だと感じるようになっていた。デポールでウォルター・パラゼイダー(sax)とリー・ロックネイン(tp)に会う前から、僕はジャズを演奏していたからね。その後、ウォルターと同じバンドにいたテリー・キャス(g, vo)とダニー・セラフィン(ds)が加わり、シカゴになったんだ。それぞれがやっていることを聴き合いながら、次第に中西部のナイトクラブでの仕事をするようになっていった。最初は、自分たちのサウンドがまだ出来てなかったんで、TOP40をカバーしていた。というか、クラブではそれが求められたんだ。60年代後半のTOP40は、ジェイムズ・ブラウン、サム&デイヴ、フォー・トップス、テンプテーションズ、ライチャス・ブラザーズ、モータウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン……などR&Bやソウル・ミュージックが中心で、ホーンをフィーチャーした曲が多かった。やがてマザーズ・オブ・インヴェンションが登場し、僕らは夢中になった。フランク・ザッパの音楽にはクラシック、ジャズ、ポップスなど全てが入っていたからね。僕自身、アレンジャーとしてもとても影響を受けたよ。 そんなわけで最初はカバー・バンドとして当時、人気があった曲をやっていたが、次第に自分たちのヴォイスを見つけるようになった。最初にオリジナル曲を持ってきたのはロバート・ラム(key, vo)だ。その後、テリー・キャス、そして僕も曲を書くようになり、それらの曲をホーンセクションでどうやって形にするかということを考えた。ベーシックトラックを聴きながら、口ずさんでメロディラインを書く……ボーカルのメロディとホーンがリードのメロディを取り合うようなアレンジだ。だからホーン・アレンジを取り除いてしまったら、シカゴの音楽は成り立たない。もしかすると無意識に職にあぶれないよう、そうしていたのかもしれないね。 ─(笑) ジェイムズ:だってホーンがなかったら、シカゴの曲はスカスカだ。ホーンが欠かせない要素だった。ところがそういうことをやっているバンドは、他にいなかったんだ。ポップ・ミュージックにおけるホーンの立場を確固たるものにしたのは僕たちだよ。それまで金管楽器といったブラス奏者は、ジャズかクラシックを演奏するのが主流だった。ポップスでは本物のホーンの演奏はなかった。僕らがその扉を開き、チャンスを作ったんだ。だから僕は今もこうしているわけで。ポップスとホーンの関係を確立してくれてありがとうと、他のホーン奏者からは感謝されるよ。