「憎いね、津波」手漕ぎの木造船『さくば』はもうない“最後の船大工”橋浦武さん(81)が小さな模型に託す『震災の記憶』
宮城県名取市閖上地区は、太平洋に面した海と川のまちです。 名取川の南側に位置し、古くから漁業が盛ん。江戸時代には仙台藩直轄の港として栄え、東日本大震災の前には2000世帯以上、およそ5700人が暮らしていましたが、震災の津波で甚大な被害を受けました。 【写真を見る】「憎いね、津波」手漕ぎの木造船『さくば』はもうない“最後の船大工”橋浦武さん(81)が小さな模型に託す『震災の記憶』 ■最後の船大工が語るかつての閖上の賑わい この閖上で生まれ育った「最後の船大工」がいます。 腕利きの船大工として活躍した橋浦武さん(81)です。 橋浦さんは15歳で中学を卒業したあと、師匠のもとで修行を積み、その後独立。 船大工として職人の技を磨いてきました。 幼い日々の、かつての閖上の賑わいを懐かしく思うと話します。 橋浦武さん: 「昔はかまぼこは木の型で作っていたから、手ばたきかまぼこといって。炭で焼いたんだよ、ガスなんかないから。このころは吉次を使っていたから、ほかのとは全然格段の差。工場のひとたちもみな顔見知りで、破損したのを安く買ってきて食べてたね」 ■閖上での生活には欠かせなかった木造船「さくば」 そんな橋浦さんが、かまぼこのほかに、閖上の景色にいつもあったものと語るのが「さくば」です。 橋浦武さん: 「いっぱいあったんですよ、さくば。名取川に停めてあった」 「さくば」とは、昭和30年代ごろまでこの地域で漁船や渡し舟として使われていた、手漕ぎの木造船のこと。 4メートルほどの小舟で、橋浦さんは「水上の軽トラ」と表現します。 実はこの「さくば」、おそらく閖上でしか通じない言葉とのこと。 仙台市出身で日々県内を取材してまわっている筆者も、この取材を通して初めて耳にした言葉で、実物を目にしたことはありません。 橋浦武さん: 「生活の一部ですね。これがなかったら大変でした。川があるまちだから、生活に利用していた」 ■震災の津波ですべて流された 人々の生活の中に溶け込んでいた「さくば」でしたが、昭和後期になると仙台方面とつながる橋が開通したことで徐々にその数は減っていき、平成に入るとレジャー用としてわずかに残るのみとなりました。