【お寺の掲示板134】人生を歪ませる「自分都合メガネ」
「帰巣本能」というのはすごいもので、前夜の記憶は曖昧でも、ちゃんと自分の部屋で寝ていたりします。イスラームに限らず、宗教的に「飲酒」を戒めることはよくあります。それは健康のためというよりも、「前後不覚」に陥らないためなのです。(解説/僧侶 江田智昭) ● 「不飲酒戒」という戒律 まもなく12月。早いもので、今年も忘年会シーズンの到来です。この時期によく起こるのはお酒の失敗。飲んでハメを外してしまい、次の日の朝に落ち込む経験をした方もいらっしゃるのではないでしょうか? お酒を楽しく飲んでいるときは、自分が酔っていることをほとんど意識しません。飲んだ翌日の朝に酔いがさめてから「酔っていた」ことを強く自覚し、反省するものです。 仏教ではお酒をどう考えるか。みなさんもご存じのとおり(ご存じないかもしれませんが)、仏教には「不飲酒戒」という戒律があります。お釈迦さまは『スッタニパータ』という経典の中で、「飲酒を行ってはならぬ」とおっしゃった上で、お酒の問題点を以下のように指摘されています。 諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。この禍いの起こるもとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、しかしひとを狂酔せしめ迷わせるものである。(『スッタニパータ』) 要するに、「お酒というものは、愚人の愛好するところであり、人を怠惰にし、悪事をなさせ、狂酔せしめ、迷わせるもの」だそうです。このように問題だらけのものですが、お酒の誘惑から逃れられないという方も当然いるでしょう。 今はあまり使われなくなりましたが、「お酒を前後不覚になるまで飲むな」という戒めの言葉がありました。「前後不覚」とは、前後の区別も認識できない状態になってしまうこと。酔っぱらってこのような状態になると、およそ正常な認識は不可能になります。
● 「自分の都合メガネ」の歪み では、シラフの状態の私たちは、果たしてこの世界をクリアに見て、正常に認識することができているのでしょうか? 実は私たちは酔っぱらっていなくても、歪んだモノの見方をしています。僧侶であり、宗教学者でもある釈徹宗師はそれを以前「自分の都合メガネ」という言葉で表現していました。 人間はみな「自分の都合メガネ」をかけています。歪んだ見方を引き起こす「自分の都合メガネ」は、仏教でいうところの「無明」と呼ばれる煩悩であり、それによって真理と反対の考えに至ることを「顛倒(てんどう)」と言います。 「顛倒」は「自分の都合メガネ」(無明)に起因します。このメガネによって世界が歪んで見えている状態は、お酒を飲んで酔っ払った状態によく似ています。 私たちの眼には自己中心的なバイアスが強くかかっているため、ありのままに見て、認識することができません。ですから、アルコールを全く口にしていなくても、実は「前後不覚」の酔っぱらいのような状態なのです。浄土真宗の宗祖親鸞は、以下のようにおっしゃっています。 無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつる(『親鸞聖人ご消息』) これは、「無明の酒に酔って、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(根本的な無知)の三毒だけをほしいままに好んできた」ということです。また、『一念多念文意』には、「凡夫は無明煩悩が身に満ち満ちて、欲やいかりやそねみなどは臨終まで消えない」ともおっしゃっています。 「無明」の酒の酔いからさめる、つまり「自分の都合メガネ」を外すことは、臨終に至るまで、一般の人には残念ながら困難なようです。その点、人生の中でこのメガネをうまく外すことができたお釈迦さまの教えは、メガネを外した状態の教え、つまり、無明の酔いからさめた状態の教えといえます。 私たちがかけているメガネの性質は人によって全くバラバラです。自分がかけているメガネや他者がかけているメガネの存在を意識することによって、自分自身の生き方や他者の捉え方がかなり変わってきます。 みなさんも仏教の教え(さめた眼)を通して「自分の都合メガネ」がどのような特徴を持っているかを観察してみてはいかがでしょうか?
江田智昭/ダイヤモンド・ライフ編集部