インターネットが実現した「多様性」を人々がこぞって捨て去ろうとしている「悲しき現実」
「Web2.0」がたどり着いた場所
かつて「Web2.0」という理想が叫ばれていた時代があった。そう昔のことではない。提唱者の一人ティム・オライリーの論文が発表されたのが2005年のことだ。 この言葉に明確な定義は与えられていない。しかしそのことが逆に、この言葉を当時のインターネットが手にしていた「夢」の象徴に押し上げていった。それまで、ある程度の専門的な知識を必要としていたインターネット(Web1.0)の情報発信が、ブログなどのサービスの普及によってコンピューターさえあればほぼ誰にでも可能になる。 これによって、インターネットのすべてのユーザーが潜在的に受信者であると同時に発信者となる。これが「Web2.0」の骨子だ。 当時、その推進者たちはこう主張していた。SNSなどの発展は、あらゆる人びとに情報発信の手段を与える。20世紀のほぼすべての人類はメディアを介して情報を受信することしかできなかったが、21世紀のほぼすべての人類はプラットフォームを介して情報を発信することもできるようになる。 みずから情報を発信することによって、人びとはより情報を深く考え、多角的に接するようになるだろうと。それが、世界に多様性をもたらすだろうと。 しかしWeb2.0化の終着点、つまり「メディアからプラットフォームへ」の変化がもたらしたのは、まったく逆の効果だった。この変化がもたらしたのは、たとえ発信する手段を得てもほとんどの人間には発信に値する能力などなく、プラットフォームで展開するのはプレイヤー同士の低コストな承認の交換でしかないという現実の可視化だった。 そして、いま人びとはプラットフォームの要求する相互評価のゲームの速度に追いつくために、拙速なコミュニケーションを無反省に重ね、問題の内容ではなく他人の顔色だけを読み、考えることを放棄してより愚かになっていこうとしている。そして、インターネットが実現したはずの多様性をみずから放棄しようとしているのだ。 政治から経済へ、国家から市場へ、メディアからプラットフォームへ、コミュニティから場へ、共同体から個人へ、物語からゲームへ。 この変化はあるレベルでは確実に人間を檻から解放した。それまで声を上げる手段をもたなかった人びとが声を上げはじめ、それまで届かなかった遠く離れた場所にも声が届くようになった。しかし、あるレベルではこの変化は人間を別の檻に閉じこめたのだ。 物語と違ってゲームは人間を能動的にする。しかし能動的であること、自分の関与で世界が変わること/他のプレイヤーの承認を得ることの快楽は強力すぎて、人間をそれ以外の刺激から遠ざけてしまうのだ。 その結果として、人間は問題そのものに関与する動機を失い、そして世界のあるレベルから多様性は失われている。そこでここでは経済=場=プラットフォームから、そこで展開するゲームが与える快楽を相対化する方法を考えたい。 それも家族とか、国家とか、そうしたつい最近まで、いや、こうしている今も多くの人びとを呪い、縛りつけているものに回帰することなく、プラットフォームの時代を内破することを考えたい。それが本書の主題だ。 さらに連載記事<ウクライナ戦争が「きわめて21世紀的な戦争」だと断言できる「意外な理由」>では情報社会の問題点をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
宇野 常寛(評論家)