道長が「娘の出産」に取った“あまりにひどい反応”。天皇に嫁いだ娘達に道長が抱いた願い
1010年、妍子は居貞親王(後の三条天皇)のもとに嫁ぎました。すでに藤原済時の娘(藤原娍子)が居貞親王の妃となっており、994年に娍子は敦明親王を産んでいました。 これに対抗するべく、妍子は居貞親王の世継ぎとなる男子を産むことを使命とされたのです。 1011年、一条天皇は崩御され、居貞親王が即位、三条天皇となります。妍子は中宮、藤原済時の娘・娍子は皇后となりました。 妍子は皇子を産むことを期待されていましたが、産まれたのは、女児(禎子内親王)でした。禎子内親王は、後に後朱雀天皇の皇后になります。
普通であれば、男子であろうと、女子であろうと、産まれたらよろこぶものでしょう。 しかし、道長は違いました。妍子が女児を産んだことに不快感を示したというのです(『小右記』)。 『小右記』の著者・藤原実資は「これは天の為すことであり、人間に関することはどうしようもない」と記していますが、それはそのとおり。不快感を示すほうがおかしいのです。 道長には3女・威子もいましたが、彼女もまた皇室に入ることになりました。
1018年、威子は後一条天皇のもとに入内しました。威子にとって後一条天皇は甥にあたります。この時威子は20歳、後一条天皇は11歳でした。 そのようなこともあり、威子が妊娠・出産するのは、かなり先になりました。威子が身ごもったのは、1026年、28歳の時です。 威子も姉たちと同じく皇子を産むことを期待されて、諸所で祈願が行われ、僧侶には読経が命じられました。 そして、威子は無事に出産しました。産まれたのは、女児でした。章子内親王です。章子内親王は、後に後冷泉天皇の中宮となります。
威子の女児出産に対する道長の感想は残されていません。しかし、平安時代中期の貴族である源経頼の日記『左経記』には、威子が「女」を産んだことを「すこぶる本意と相違す」と記されています。 もちろん、この続きには「平安をもって悦びとなす」とは記されてはいるのですが、皇子を産んでほしいという周囲の期待があったことが窺えます。 ちなみに、源経頼は、藤原道長の妻・源倫子の甥でした。威子の女児出産は、道長の最晩年に当たります(道長は1028年に死去)。このころには、娘が皇子を産むことへの執着はかなり薄れていた可能性もあります。