柄谷行人回想録:文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係
磯崎新の鋭い指摘
柄谷 その頃から親しくなった建築家の磯崎新とは、鈴木さんを通じて知り合ったんじゃないかな。あの二人は親友だったから。利賀村にも静岡にも磯崎の建築がたくさんある。 《磯崎新は、1931年大分市出身の建築家。東京大の恩師・丹下健三のもとで、大阪万博のお祭り広場の計画に参加。その後、無表情な箱形のモダニズム建築への批判を強め、ポストモダン建築の金字塔とされる「つくばセンタービル」を設計。世界的にも活躍し、アメリカ・ロサンゼルス現代美術館なども手掛けた。著書「建築の解体」などの言論活動でも大きな影響を与えた。2022年死去》 ――磯崎新といえば、“ポストモダンの旗手”というイメージで、建築に関する言説でも大きな影響を与えました。柄谷さんは、80年には「群像」で「隠喩としての建築」の連載を始めます。西洋哲学を建築に例えてその構造を論じた本で、あくまで建築は“隠喩”ではありますが、磯崎さんから刺激を受けたんでしょうか。 柄谷 直接的な関係はなかったと思う。あれは、建築というよりは哲学の論文だし。むしろ、磯崎さんがあの論文を気に入ってくれたことがきっかけで、建築関係者との縁ができた。90年代には、Any(Architecture New York)という建築の会議に関わりました。これは、ピーター・アイゼンマン(脱構築建築で知られるアメリカの建築家)と磯崎さんが中心になって、毎年1回、建築家と理論家が集まって討議するという国際シンポジウムでした。常連には、ジャック・デリダや浅田彰もいた。Anyのメンバーによる、建築理論の本のシリーズも刊行されることになって、僕の『隠喩としての建築』の英語版も、その一冊として出版されました。日本科以外の外国から頻繁に招待がくるようになったのは、この本が出てからです。 磯崎さんは、自身も独自の視点をもった理論家です。建築家として、例外的でしょう。いうまでもなく、建築においてもパイオニアで、西洋の流行の後追いをするようなところが微塵もなかった。安易な日本性を打ち出すことも、もちろんない。柔軟で悠然とした人柄も魅力でした。そんな人だから、一緒にいると刺激的で楽しかった。 彼は、僕の思想にも、興味を持ち続けてくれた。そういえば、『世界共和国へ』(2006年)という本を出したばかりのとき、磯崎さんは、そこで僕が論じた、交換様式A、B、C、Dについて、4象限で表記するのはおかしいんじゃないか、と言ったんですよ。Dは、A、B、Cとは異なる次元にあるものだから、3象限プラス1にしないと、と。それは鋭い指摘で、実は、Dは厳密には交換様式ではないんです。Dは、すべての交換の否定、脱交換だからね。 ――交友関係の広がりで、柄谷さん自身も影響を受けたといえそうですね。 柄谷 演劇や建築にかかわる人たちの場合、文学者や哲学者と違って、共同作業が中心でしょう。おまけに、大企業とか政治家ともつきあわなきゃいけないんだから、住んでいる世界が違う。鈴木さんや磯崎さんからの誘いのお陰で、人見知りだった僕も、人と一緒に活動することに、多少慣れました。だけど、自分の思想が変わった、ということはないですね。もともと僕の考え方は、専門的というより、横断的なものでしたから。文壇の外の人や外国人と通じ合ったのは、そのためでしょう。 (聞き手・滝沢文那)
朝日新聞社(好書好日)