柄谷行人回想録:文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係
文壇からの距離
――文壇とのつきあいは徐々に薄れていったんでしょうか。 柄谷 選考委員をやっていた関係もあって、授賞式なんかによく出ていたから、文学者に知り合いはたくさんいたけど、もともとさほど深いつきあいがあったわけでもないんです。年が近い親しい友人は、中上健次くらいで。 ――アメリカから帰国した後、人付き合いが変化した部分もあるのでしょうか。 柄谷 それはあるでしょうね。ただ、外国がよかったから、日本が嫌になったとかいうことではない。外国の人の方が僕のやっていることをわかってくれた、という意外な感じはありましたけどね。 それから、文学から気持ちが離れていったのには、個人的な事情もあったんですよ。当時の妻の冥王まさ子が、79年に小説を書いて文藝賞をもらった。それは良かったんだけど、妻が作家になった以上、僕の方は文芸批評家を廃業するしかない、と思った。彼女の小説を批評するのも変だし、無視するのも変だから。 ――夫婦ともが文壇でやっていく、というのは複雑なことなんですね。 柄谷 彼女だって、そんなことはわかっていたと思います。ただ、彼女は、英文学界では正当な評価を得られないということで、ずっと悩んでいた。それで、小説家になることで新しい道を拓こうとしたんだと思う。そして、新人賞を得た。しかし、僕が批評家として活動していると、彼女はやりにくい。僕もやりにくい。だから、1980年代に入って、僕は文学批評をやめようと思ったのです。つまり、理論的・哲学的な仕事に専念しよう、と。 ――文学者の代わりに、演劇人とのつきあいが増えたわけですか。 柄谷 演劇人だけでなく、いろいろな分野の人たちとのつきあいが増えましたね。それに当時は、小説よりも演劇のほうが先駆的だった。近代小説という表現形態は、過渡期を迎えていたような気がします。理論の実践という意味でも、演劇の方が先を行っている面があった。例えば、当時、文芸批評では、「引用の織物」(ロラン・バルト)とか「間テクスト性」(ジュリア・クリステヴァ)ということが言われていましたが、古典を引用して組み替えるようなことは、すでに寺山や唐、鈴木のような人たちが実践していたことだった。 鈴木劇に関して言えば、シェークスピアやギリシャ悲劇、チェーホフのようなヨーロッパの古典を下敷きにした劇で、役者が日本の能に由来するような身体技法にのっとった動きや発声をする。そうすると、身体的な表現が際立つ。といっても、鈴木劇が外国で人気があるのは、エキゾチズムのためというよりも、言葉と行為の分裂という普遍的な問題を体現しているからだと思います。