「サブカルとJ-POP」1950年代編、洋楽の影響で生まれた日本の新しい音楽
この時代のサブカルと言えば、映画
監獄ロック / 平尾昌晃 1958年発売、平尾昌晃さんの「監獄ロック」。今のはライブ音源です。おわかりになりましたですね。あれは日劇のウエスタン・カーニバルの模様なんですね。女の子たちがキャーって叫んでいるという、戦後最初のシーンですね。 1957年のエルヴィス・プレスリーの映画の主題歌。これも私事で恐縮なのですが、初めて買ったレコードがエルヴィス・プレスリーの「監獄ロック」の33回転シングル7曲入りというやつでした。平尾昌晃さんは、1937年生まれで終戦が8歳の年。おじさんが国立音大の作曲家なんですね。小学校3年生のときに米軍の将校からもらったジャズのレコードが音楽の目覚めだった。自宅に米軍の将校が来るという、そういうお坊ちゃんだったんですね。11歳のときののど自慢で英語で歌って、そのときはジャズだった。彼もエルヴィス・プレスリーに衝撃を受けたという、若者文化の先鞭をつけた一人ですね。小坂一也さんがいたバンドの次のヴォーカリストだった。ジャズ喫茶で歌っていて、渡辺プロダクションにスカウトされた。ホリプロとかですね、ナベプロというのはこの頃の一番若い人たちの最先端にいたミュージシャン、歌い手さんが集められたそんな組織でもあったんですね。次の曲はウエスタン・カーニバルと言えば、この人が出てこないわけにはいかない、そういう人の歌です。 バルコニーに坐って / 山下敬二郎 山下敬二郎さんの1958年の歌。「バルコニーに坐って」。これはエディ・コクランの大ヒット曲ですね。ポール・アンカの「ダイアナ」とこの「バルコニーに坐って」を平尾昌晃さんと山下敬二郎さんが競作していたんですね。人気者。平尾さんと山下さんとミッキー・カーチス。この3人がロカビリー3人男と言われておりました。山下敬二郎さんのお父様は落語家の柳家金語楼さんですね。彼もカントリー・バンドで進駐軍で演奏していた。ジュークボックスから流れてきたロックンロールで俺も歌ってみようというふうに音楽の道に入った人ですね。ウエスタン・カーニバルは渡辺プロダクションが始めたポップス系のイベントの走りですね。宝塚とか松竹歌劇団とかレビューというのがあったのですが、このコンサート、バンドでみんなが歌うというのはウエスタン・カーニバルから始まったというふうに言っていいでしょうね。それまではジャズ喫茶でしたからね。 この50年代に進駐軍のキャンプにミュージシャンを送り込んでいた人たちが後に渡辺プロダクションとかホリプロダクション、マナセプロダクションという大手芸能プロダクションになっていくわけですね。そうやって時代が変わっていく。で、次の新しい若者が出てくるという、それがサブカルとJ-POPというテーマでもあります。この時代のサブカルと言えば、映画ですよ。日活映画。若者たちが主人公だった。かっこいいなああの人というふうに少年たちに思わせた、不良の若者たち。そんな人たちの中の1人です。今日最後の歌、この曲は甲斐バンドが歌っておりました。 ダイナマイトが百五十屯 / 小林旭 小林旭さんの「ダイナマイトが百五十屯」。1958年発売。甲斐バンドも全然かっこいいですね(笑)。石原裕次郎さんが『太陽の季節』というあの小説で衝撃的なデビューを果たしたのが1956年ですね。日活映画は石原裕次郎さんと小林旭さん、2本柱でしたね。作詞が関沢新一さんで、作曲がなんと船村徹さんですよ。あの「あの矢切の渡し」の船村さん。もう日本の歌謡界の大重鎮。船村さんも米軍キャンプのバンドのリーダーだったことがあるんだということをあらためて知りました。そういう人が後にメイン・カルチャーを作っていくんですね。どんなスターにもサブカル時代があるということなのかもしれません。