「サブカルとJ-POP」1950年代編、洋楽の影響で生まれた日本の新しい音楽
笠置シヅ子の「ジャングル・ブギー」とAdoの「うっせえわ」の共通点
ジャングル・ブギ― / 笠置シヅ子 1948年11月発売、笠置シヅ子さんの「ジャングル・ブギー」。作詞があの黒澤明さん。映画監督の黒澤さん。作曲が服部良一さんですね。黒澤監督の映画『酔いどれ天使』の中で歌われた歌です。これはもう歌というよりも、「衝動」という感じがしませんか? これを聴きながらAdoの「うっせえわ」を思い浮かべました。あ、ここにも流れがあったんだなと思いましたね。服部良一さんは戦前に「山寺の和尚さん」という歌を作っていまして、メロディとか歌詞よりもまずはリズムから曲を作るという意味で最初と言っていいぐらいの走りの歌があります。サブカル的な流れは戦前からずっとあるわけですけど、戦後花開いたのがこの時期ですね。 この「ジャングル・ブギー」は、後に90年代に入ってクラブのDJが流したり、スカパラがカバーしたりしてます。そうやってめぐるめぐるという引き継がれ方をしていますね。サブカルってなんだってあらためて思ったときに、簡単な定義、説明というのがあるなと思ったんですけど、学校で教える音楽とか、文部省唱歌、ああいう音楽をメイン・カルチャー、正統派なんだとしたら、こういう衝動とか気分とか、思ったことがそのまま音楽になっている。これがサブカルだなと思った。良識のある大人たちの眉をしかめさせる自由な音楽。今週は1950年代編です。 アルプスの牧場 / 灰田勝彦 お聴きいただいているのは1951年発売、灰田勝彦さんの「アルプスの牧場」。レイホー!レイホー!ヨーデルですからね。これね、懐かしいんです。自分のことを言ってしまうと、生まれて初めて歌えるようになった歌がいくつかありまして、その中の1つがこれなんです(笑)。作詞が佐伯孝夫さんで、作曲が佐々木俊一さん。佐伯孝夫さんは吉田正さんと組んでいた作詞家ですね。佐々木俊一さんは灰田勝彦さんの「野球小僧」という歌を書いてます。野球小僧を知ってるかい♪という。 灰田勝彦さんはハワイアンの出身なんですね。広島からハワイに移住したお医者さんの息子さんで、ハワイに生まれて。お父さんの納骨のために日本へ帰ってきたときに関東大震災になって、それきりハワイに帰れなくなってしまって日本で活動していた。日本で初めてのハワイアン・バンドのヴォーカリストなんですね。奥様はハワイ在住の女性なのですが、ハワイはアメリカでしたから戦争中は行けなくなったので戦後、結婚しているんですね。戦争がもたらした遠距離恋愛の末の結婚だった。このサブカルの歴史にはいくつ特徴がありまして、洋楽の影響で生まれた日本の新しい音楽。西洋の影響を受けた若者のあり方。これがサブカルなのかなと思ったりもしております。50年代の日本のポップスはともかく明るいんです。これも1951年発売です。 ミネソタの卵売り / 暁テル子 これも1951年、昭和26年発売。暁テル子さんの「ミネソタの卵売り」。作詞が佐伯孝夫さんで、作曲が利根一郎さん。暁テル子さんというのは笠置シヅ子さんと同じ松竹少女歌劇団出身なんですね。笠置さんには及ばないんですけども、やっぱりブギウギが多いんです。「ミネソタの卵売り」ですよ。どんな人を想像されますか(笑)? これも私が5歳か6歳、小学校のときにもこういうのを歌ってました。学校で歌謡曲を歌っちゃいけませんと言われていた、そんな少年でありましたが。サブカルとは何か。自由な音楽というふうに言うのがわかりやすいかなと思ったんですね。型にはまらずに歌いたいことを歌う。この暁テル子さんの「ミネソタの卵売り」には三部作がありまして、「リオのポポ売り」、「チロルのミルク売り」。もう無国籍の極みでしょ。「ミシシッピの恋唄」とか「ハワイ恋歌」とか、「君と行くアメリカ航路 feat.灰田勝彦」。灰田勝彦さんも国民的なスターだったんですね。 そういう海外憧れソングがこの頃たくさんありまして、その第一号が1948年のあの「憧れのハワイ航路」ですよ。晴~れた空~そ~よぐ~風~♪ってあの歌ですね。作っている人は誰も海外に行ったことがない。歌っている人も行ったことがない。行ったことのある人は兵隊さんか戦地に慰問に行った人ですね。そういう人たちの夢の気分、それが歌になっているんでしょうね。「ミネソタの卵売り」は年間2位だったというデータがありましたよ。もちろんオリコンとか、そういうチャートがないのでどういう計算をしているのかわかりませんが、1位が「上海帰りのリル」。リル~リル~誰かリルを知らないか♪っていう、これも無国籍でしょう。次の歌も1952年の歌です。 お祭りマンボ / 美空ひばり 1952年、昭和27年に発売になった美空ひばりさんの「お祭りマンボ」。マンボというタイトルがついている曲で、一番知られている一番古い曲なのかもしれませんね。洋楽の日本的解釈。作詞作曲が原六朗さん。服部良一さんの内弟子だった人で、詞を書いたり曲を書いたりすることとか、サックスの吹き方まで服部良一さんに手ほどきされているという、一番弟子ということでしょうね。彼は明るい曲が好きなのに演歌の注文が多くなって嫌気がさして引退してしまったという。つまり、この頃は明るい歌が多いんですよ。これはヒット曲ですから、さっきの「ミネソタの卵売り」も年間チャート2位ですから、そういう意味ではサブカルチャーというよりも、この時代のメイン・カルチャーと言っていい売れ方をしている。でも、だんだんそういう明るい歌がメインの方から減っていくんですね。この原六朗さんはそれが嫌で辞めちゃったというそういう人ですね。この「お祭りマンボ」は神田の江戸っ子の歌ですけども、関西だと河内の生まれよということになるのかもしれませんが、ブギウギもあるし、ヨーデルもあるし、マンボもあるし、次はチャチャチャです。1955年の曲です。