「サブカルとJ-POP」1950年代編、洋楽の影響で生まれた日本の新しい音楽
1950年代の歌謡曲は無秩序
チャチャチャは素晴らしい / 雪村いづみ 雪村いづみさんの1955年の曲、「チャチャチャは素晴らしい」。雪村いづみさんは美空ひばりさん、江利チエミさんと並ぶ初代3人娘ですね。ブルーカナリアというダイナ・ショア、向こうの大ヒットを日本でカバーした。映画『シェーン』という西部劇がありましたね。あれの主題歌「遙かなる山の呼び声」とか、いろいろなヒット曲がある人ですね。 彼女は1955年から1956年にかけて1年間でマンボ、チャチャチャというタイトルのついた曲を6曲発売しております。チャチャチャとマンボを一緒にしたチャンボというタイトルの曲もありました。今の曲はチャチャチャの創始者でキューバのエンリケ・ホリンという人のカバーなのですが、アンドケケーロケチャチャチャ♪というのを小学生で歌っておりました(笑)。1950年代の歌謡曲は無秩序です。これこそサブカルかなという、そういう曲がたくさんあります。 ガード下の靴みがき / 宮城まり子 宮城まり子さんの1955年の歌、「ガード下の靴みがき」。作詞が宮川哲夫さんで作曲が利根一郎さん。宮川さんは「東京ドドンパ娘」も書いていましたね。「ガード下の靴みがき」。靴みがきの少年がいたんですね。さっきの暁テル子さん、彼女のヒット曲にも「東京シューシャインボーイ」という歌があるんですね。靴みがきと言わずにシューシャインボーイ、とってシックな靴磨き。ダンスがお得意、英語がペラペラという踊る靴みがきの歌なんですね。 1950年代、少年の歌が結構あるんです。こういう家を失くした、親も失くした少年の歌はあるんですけど、若者の歌が比較的少ないんですね。なんでかと言うと、男性の青年は戦死してしまっていなかった。東京もそうですし、もちろん大阪もそうですね。その頃の街の写真をご覧になっていただけるとおわかりだと思うのですが、僕らその名残りを見ていますけども、ガザとかウクライナと見間違うような焼け跡が広がっております。そこからこういういろいろな歌が生まれたんですね。女性の歌が多いのは、女性が希望的存在に見えたんでしょうね。女性がやっぱり元気だった。そんな表れかもしれませんね。 宮城まり子さんは女優さんで、紅白歌合戦に8回も出ているんですけど後に福祉の道に進むんですね。日本で初めての民間の社会福祉施設ねむの木学園というのを自費を投げ売って始めました。体の不自由な方とか、身寄りのない少年少女を集めていた。こういう曲を歌っている中で、やはり自分がやるべきことをそこに見出していったんでしょうね。次は男性の歌。少年ではないですが、でも若者の歌ですね。 16トン / フランク永井 フランク永井さんの「16トン」。1955年の曲ですね。オリジナルはザ・プラターズ。炭鉱で働く若者の歌ですね。フランク永井さんと言えば、1957年の「有楽町で会いましょう」という大ヒットがありますが、その前は米軍キャンプでジャズを歌っていたんですね。この今の「16トン」も英語の発音がとっても綺麗でしょう。そういう米軍キャンプで米兵相手に歌っていた、その名残りでしょうね。キャンプでジャズを歌ったりしているときにはあまり売れなくて、歌謡曲に転向して。転向してという言葉がよく使われたんですね。歌謡曲を歌うようになって売れました。 これは50年代だけではなくて、いつの時代にもそういう関係がありますね。マニアックな音楽、ジャズの好きな人、カントリーの好きな人、ブルースの好きな人。そういうマニアックな洋楽が好きな人たちの中で歌っていた人がそこから出て、歌謡曲、メジャーの世界に行って売れるようになって、その人の人生も変わっていくし、音楽シーンもそこから流れが違う方向に行く。50年代もそうですね。進駐軍、米軍のキャンプが新しい音楽の情報源であり、発信源だったんですね。キャンプで歌っていた人たちが日本語の歌を歌ってラジオやテレビに出るようになって、スターになっていく。その走りがこの時代でしょうね。昭和30年というのは、1955年ですね。この頃からそういう歌謡曲サイドに流れ込んでくる洋楽が変わっていきます。ジャズやマンボやカントリーじゃなくなるんです。ロックンロールが登場します。 ハートブレイク・ホテル / 小坂一也とワゴンマスターズ 小坂一也さんの「ハートブレイク・ホテル」。1956年発売、エルヴィス・プレスリーの曲ですね。小坂さんはカントリー・バンドで基地で歌っていたんですね。この「ハートブレイク・ホテル」の時は小坂一也とワゴンマスターズという名義ですね。ワゴンマスターズにはホリプロダクションを作った、堀威夫さんがギターを弾いていたとか、後にテレビのシャボン玉ホリデーとか、そういう一連のバラエティ番組で名を挙げる井原高忠さんという方もいたりしたんですね。キャンプで音楽が好きでバンドを組んだり歌ったりしていた人たちが新しいメディアに入っていったりする。新しい歌を歌うようになっていったりする。そういう1つの例ですね。 1956年の紅白歌合戦、初出場で小坂さんはこの歌を歌っているのですが、このときの顔ぶれを見たら紅組の大トリが笠置シヅ子さんで、白組の大トリが灰田勝彦さんだった。小坂さんの「ハートブレイク・ホテル」を対決した相手が、大津美子さんの「東京アンナ」という歌だった。東京アンナ、噂のアーンナ♪ってバタ臭い歌ですよ。男性も女性もシャンソン歌手、ジャズ歌手、カントリー歌手、いろいろな人たちが紅白に出ていたという。何がメインかわからないぐらいにジャンルが多様な、そういう時代だったんですね。 で、1956年度の経済白書というのが発表されまして、もはや戦後ではない。それまではサブカルもメインも一緒というぐらいにいろいろなものが新しく始まったという、そういう時代ですね。1956年には三橋美智也さんの「りんご村から」とか「哀愁列車」という歌が大ヒットするんですね。そのへんから民謡系の歌謡曲が力を持つようになってきて、サブカル天国はこの頃からだんだん下火になっていくという、そういう時代ですね。1950年代後半、ロックンロール上陸の時代です。