女性の地位向上に努めて70年。「男女雇用機会均等法」生みの親、赤松良子について樋口恵子が語る
女性官僚のパイオニア的存在であり、「男女雇用機会均等法」の成立に尽力するなど国内外で活躍してきた赤松良子さんが、2024年2月6日、94歳で逝去されました。大学の後輩で、志をともにしてきた樋口恵子さんが、赤松さんの大きな功績と親交の思い出を語ります(構成:篠藤ゆり) 【写真】「雇用機会均等法」の産みの親・赤松さんと樋口さんのツーショット * * * * * * * ◆「小さく産んで大きく」 赤松さんの覚悟 赤松さんや私が生まれたのは、女性に投票権がなかった時代です。戦後の1945年、婦人参政権が成立しました。次第に女性が社会的に活躍するようになるまでには、先達の大変なご苦労があったわけです。 赤松さんが就職した当時、女性を採用する省庁は労働省くらいしかありませんでした。しかも、男女で昇進に差があるので、どんなに優秀な女性でも相当悔しい思いをしていた。赤松さんも悶々としながらも「いまは雌伏のとき」と、猛烈に英語の勉強をしたり論文を書いたりするしかなかったのです。 私も男女共学の大学を卒業して社会に出るときに、ある大企業で女性の定年は30代と聞いてショックを受けました。 赤松さんは、企業が結婚を機に女性を退職させる「結婚退職制」に異議を唱え、65年に『女子の定年制』(婦人少年局編)という本を執筆。ジェンダーという言葉が知られていない時代から、一貫して、男女平等、女性の権利獲得に取り組んでいらしたのです。 その後、79年に国連公使としてニューヨークに勤務。当時、国連本部では「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」、通称「女性差別撤廃条約」の討議が進められていました。 はたして日本はこの条約を批准できるのか、赤松さんはかなりやきもきされた。国内では市川房枝さんの呼びかけで女性団体が幅広く連帯し、総理府や外務省に陳情。80年に無事、条約の署名に漕ぎつけました。これがのちの、「男女雇用機会均等法」につながっていきます。
帰国した赤松さんは労働省婦人少年局長となり、職場での男女平等法の実現に取り組むことに。しかし、すんなりとは進みません。男女の陣取り合戦だけではなかったんですね。省の内部でも足並みが揃わないし、経営者側からも労働者側からも、さまざまな反発や批判が浴びせられた。 そんな厳しい状況のなかでも、85年、ついに「男女雇用機会均等法」が衆院本会議で成立しました。ただし、違反した場合の罰則や禁止条項は少なく、ほとんどが「努力義務」。そのため、「生ぬるい法案ならいらない」と反対運動に転じる女性団体もあり、赤松さんは相当糾弾もされたのです。 でも、赤松さんは、「小さく産んで大きく育てる」をモットーに、とにかく法律を一日も早く作ることを最優先された。完璧を目指したら、機を逸してしまう恐れがあったからです。そのために根回しをし、なんとか落としどころを見つけたのでしょう。いま振り返っても、この判断はさすがだと思います。 新たな法律を作るというのは、本当に大変なことです。その時々の政局によっても左右されますし、さまざまな思惑が絡み合う。そんななか風当たりの強い法案を成立まで持っていったのですから、すばらしい功績だと思います。もちろん法案が成立したのは、赤松さんのみならず、優秀な女性官僚たちのパワーがあってのことですね。 その後、日本では2人目の女性大使として駐ウルグアイ大使に、細川連立内閣では文部大臣を務めました。また、常々「女性議員が少ない国は女性が損をする」と嘆き、政治家を目指す女性を資金面で応援するネットワーク「WIN WIN」を立ち上げるなど、女性の地位向上のために精力的に活動を続けました。 赤松さんは、日本の国際的なポジションも念頭に置きながら、国のために立ち働き、ずっと女性の地位向上のために走り続けてきた──。その実績に頭が下がります。