コミック作家になる! そう決めた私は「金融コンサル」を辞め、両親を説得するプレゼンを行った(海外)
ブランドン・チェン氏は『ジャスト・ア・ゴブリン(Just A Goblin)』などのウェブコミックの原作者だ。 【全画像をみる】コミック作家になる! そう決めた私は「金融コンサル」を辞め、両親を説得するプレゼンを行った 大学卒業後、4大コンサルティング会社のひとつに就職したが、子供のころからの夢はマンガをつくることだった。 ウェブトゥーン(Webtoon)のようなプラットフォームが成功しているのを見たチェン氏は、金融の仕事をやめ、マンガに専念することにした。 以下のエッセイは、27歳のコミック原作者としてニューヨークで暮らしているブランドン・チェン氏との会話をもとにしている。長さとわかりやすさの観点から編集を加えた。 7歳か8歳のころ、私はコミックに出会った。 母が図書館から『ドラゴンボール』というタイトルのマンガを借りてきたのだ。文字だけではないシリーズ作品を目にしたのは、それが初めてだった。ストーリー展開と美しい絵に私は夢中になり、自分でも絵を描き始め、マンガに関係する仕事がしたいと思うようになった。 小学校では、自力でマンガの週刊誌をつくり、校庭で子供たちに25セントで売ろうとした。あまり売れなかったが、自分が好きでやっていたことだ。そうやって、私はマンガの世界に足を踏み入れた。 原作者と作画者にはまったく異なるスキルが必要になる。両スキルを同時に上達させるのはとても難しい。どちらか一方に専念することになるので、他方を犠牲にせざるをえない。私にとって、その決断はとても難しいものだった。 14歳のとき、「アニメの主人公のように、今この場で、はっきりとカタをつける。1枚のコインにすべてを託そう」と考えた。表なら原作者になる、裏なら作画をする。コインは表を示した。当時、私はアート系のインスタグラムアカウントをもっていたが、すべてを消去して、原作だけに集中することにした。
17歳で小説を出版
初めて小説を書き始めたのは14歳のときだった。当時大流行していたマンガ『NARUTO -ナルト-』にかなり影響された作品だった。 そのころの私は絵を描くのをすでにやめていたため、マンガではなく小説に意識を向けていた。コミック・ビジネスの仕組みも、アーティストたちとの連携の仕方も知らなかった。そうしたことを知ったのは、のちになってからだ。 ティーンエイジャーだったころの私はインターネットに入り浸りだったため、自分の小説をワットパッド(Wattpad)というプラットフォームで宣伝した。以前のインタグラムからワットパッドへ多くのトラフィックを誘導できたので、10万回の閲覧を記録した。当時の私にとっては大成功と呼べる成果だった。「すごい、フィードバックがたくさんある」と思ったものだ。私はその作品を書き続け、完成させ、パッケージ化し、17歳のときに自費出版した。 私の思うに、小説の執筆に限らず、あらゆる創作活動で最も困難なのは、最初の作品を仕上げることだ。これは本当に難しい。2回目以降は、編集者との連携、イラストレーターの雇い方など、何が難しくて、どう対処すべきかがすでにわかっている。 17歳から20歳まで、私はコミックあるいは小説の形で、毎年ひとつは作品を発表した。だが、21歳か22歳のころに、小説はやめた。視覚的なストーリー描写にふたたび重点を置き直すためだ。 そのころの私はニューヨーク大学で経済学とコンピューターサイエンスを専攻していて、ほかの多くの大学生と同じで、自由を謳歌していた。私もときにはまともに勉強することもあったが、(ほかの人に勧めはしないが)教室の外のほうがたくさん学べる、と考えるタイプの学生だった。 何回か授業に出たら、ときどき授業をサボって、余った時間でモノを書いたり学んだりした。私と違って多くの人はパーティーなどをしていたのだろうが、私は自由時間の多くを執筆に費やした。