平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 講武所芸者、勝次の場合
「美形、男装して義妹を援〈たす〉く」
明治から昭和初期にかけて新聞や雑誌に掲載された男装に関する記事を取り上げ、それぞれの事情や背景を想像する「断髪とパンツ」。 今回は変装としての男装についてみていこう。 1895(明治28)年4月18日付読売新聞「美形、男装して義妹を援〈たす〉く」(旧かな旧漢字は新かな新漢字に直し、総ルビを間引き、句読点や「」を適宜付けた)。 (前略)講武所拍子松本家勝次というは生れ持〈もっ〉ての男気にて、朋輩の受〈うけ〉もよく所の達者〈たてもの〉と呼ばれしが、近頃の事とや、至極堅気の評判高かりし新春本の錦絲〈きんし〉(十八年)の許に折々通いくる元大坂町なる原村政造(二十五年)という木綿屋の息子にて至〈いたっ〉ての気取もの、その界隈立廻り、かれを捉えて己が情婦の如く言〈いい〉触らせるより、錦絲も殊の外困れる様見るにつけては、日頃の気質〈かたぎ〉居ても立〈たっ〉ても居られず。折柄錦絲の来りて、あれでは他の客にも障り実商売の妨〈さまたげ〉と語るを聞きて胸は燃立ばかり。時こそよけれど政造が新春本に来りて怪しげなる言葉並べ立ける処を窺い、格子戸ガラリ掻きあけてズット飛込〈とびこ〉みし姿は、印半天に三尺帯占めたる鳶風の勇み肌、豆絞〈まめしぼり〉の手拭肩にズイと政造の前に坐り、「聞けば錦絲と訳ある様子、真実左様〈そう〉なら切張〈きっぱり〉言って貰いたい。己〈おら〉ァ錦絲と親の許した夫婦の中、男女〈ふたり〉の了簡聞いた上、ここ一番、神田ッ子が膽〈はら〉の据所〈すえどころ〉がある」と怒鳴り立つるに、政造は青菜に塩の真蒼になりて、「決して左様〈そう〉した訳ではなし、委〈くわ〉しい事は錦絲に聞いて下さい」というも涙声。男も少し色を直し、「左様〈そう〉あやまれば何もいわぬ。私の気性、此後〈こののち〉とも妙な評判の立たぬ覚悟が肝心」とおとなしく言葉遺して立去りし。本尊は勝次が仮の男装と知らぬ政造、此頃は錦絲の許に足踏だにせざりしとなん。 冒頭の「講武所」とは幕府が設置した武芸訓練所のことで、築地鉄砲洲(現中央区湊から明石町辺)から神田小川町に移り、転じて神田の花街を指す言葉にもなった。「講武所芸者」というと神田っ子気質の気っ風の良い姐さんたちをも想起させるわけだ。 「松本家勝次」とは「松本家」に所属する勝次という芸者の意味だが、1904(明治37)年3月刊行の『東京明覽』という東京のガイドブックの「講武所芸妓」の欄には、神田旅籠町二ノ八(現外神田)に「春松本家」という貸席(料理などを外から取り寄せて芸者を呼んで遊ぶ場所)があり、勝次という芸者がいることがわかる。同一人物だろうか。