夫は庭でアリをつつき回していた…与謝野晶子が100年前に12人の子をワンオペで育てバリバリ働き続けたワケ
■短歌を詠い続ける晶子と庭で蟻をつつき回す夫 ---------- やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 ---------- 【図表】「与謝野晶子」年譜 『みだれ髪』に収録された歌人の与謝野晶子の作品です(刊行時の名義は鳳晶子)。この熱い肌に触れもせずに人の道を説いていて寂しくないのですか、と「君」に語りかける短歌です。1901年に出たこの歌集は、恋愛における情熱を官能的に表現し、センセーショナルな話題を呼びました。それまでそんなことを書く歌人はいなかったのです。 与謝野晶子は大正時代から昭和時代前期にかけて活躍した歌人で、『みだれ髪』はもちろん、「君死にたまふことなかれ」の一節で知られる詩でも知られています。夫は同じく歌人の与謝野鉄幹で、冒頭に挙げた短歌の「君」とは、鉄幹のことを指していると言われています。鉄幹とのあいだには、12人もの子どもがいました。 晶子は家事や子育てをしながら、さまざまな作品を残しています。短歌に限らず、小説や社会評論、童話、古典の現代語訳といったものまで手掛けています。いったいなぜそんなことが可能だったのでしょうか? 晶子は1878年、現在の大阪に生まれました。両親は和菓子屋を経営しており、晶子は12歳のころから家業を手伝わされていました。忙しい生活のなかでの楽しみは読書でした。やがて晶子は雑誌に短歌を投稿するようになります。 1898年4月、晶子が19歳のときに、運命的な出会いをします。読売新聞に与謝野鉄幹という歌人の短歌が載っていたのです。その短歌にとても感動した晶子は、鉄幹の名前を胸に刻みました。 鉄幹は1873年、京都生まれ。1899年に東京新詩社を結成し、翌年に雑誌「明星」を創刊しました。「明星」はそれまでの伝統的な作風を否定し、和歌の革新を唱え、短歌や詩によるロマン主義文学運動の牙城となります。高村光太郎や石川啄木も「明星」に参加し、明星派と呼ばれる潮流をつくりました。 晶子は「明星」に短歌を投稿していました。鉄幹が大阪へ講演に来たときに、二人は初めて対面しました。やがて晶子は大阪から上京し、鉄幹と生活を共にするようになります。 『みだれ髪』はそんな鉄幹の東京新詩社から発行されました。表紙にはハートの模様のなかに女性の横顔が描かれ、当時最先端のデザインだったフランスのアール・ヌーヴォー調を取り入れた装丁になっています。中身だけでなく、見た目も洒落ていて新しかったのです。まさしく新たな時代の到来を告げるような歌集でした。 晶子は一躍時代の寵児となり、新進の作家として世間から注目を受けます。 しかし、そんな晶子の名声と反比例するように、鉄幹はスランプの渦に落ちていきます。 1908年、「明星」が自然主義文学の隆盛に押されて通算100号で廃刊となり、打ちひしがれていた鉄幹は、仕事らしい仕事をまったくしていませんでした。自身の魂を込めた雑誌が廃刊したことによって、鉄幹は“燃え尽きていた”のでしょう。庭で蟻を何時間もつつき回していたこともあったそうです。議員を目指して選挙に立候補することもありましたが、あえなく落選。そのあいだ、家計を支えたのは晶子の文筆活動でした。この状態は鉄幹が1919年に慶應義塾大学の教授になるまでつづいたそうです。教授の就任には、森鷗外の口利きがあったと言われています。 『舞姫』などで知られる鷗外は晶子の才能を早くから買っていた一人でもありました。 鷗外は『みだれ髪』を読み、その作風を「晶子曼陀羅」と評しました。鷗外は晶子の活動に一目も二目も置き、社会評論の文章に関しても、「男たちが思いつかないような大胆なことを云う」と周囲に話していたと言います。 鷗外が晶子の作風を「曼陀羅」と呼んだことは、とても示唆的です。その言葉のとおりに晶子の表現は拡大しつづけました。