近代日本軍用小銃の礎となった傑作【30年式歩兵銃】
かつて一国の軍事力の規模を示す単位として「小銃〇万挺」という言葉が用いられたように、拳銃、小銃、機関銃といった基本的な小火器を国産で賄えるかどうかが、その国が一流国であるか否かの指標でもあった。ゆえに明治維新以降、欧米列強に「追いつけ追い越せ」を目指していた日本は、これら小火器の完全な国産化に力を注いだのだった。 明治維新以降、列強に追いつけ追い越せを目指した近代日本にとって、国軍の軍備の基本となる基幹小銃の国産化は、国防上最重要の課題だった。しかし日本の銃砲史における最初の鬼才ともいうべき村田経芳(むらたつねよし)が生み出した一連の村田銃によって、この課題はとりあえずクリアーされた。 ところが19世紀末の列強における銃器の開発と進歩は急速で、日本がそのスピードに追いつくのは至難であった。このような激動の時期、村田のあとを継ぐ銃器設計者となったのが有坂成章(ありさかなりあきら)である。 有坂は幕末に砲術家の養子となり洋式軍隊の訓練を受け、鳥羽伏見の戦いに参加。明治維新後、砲兵士官を経て技官となり東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)に勤務。火砲を担当していたが、工廠長のとき、陸軍から新しい歩兵銃を設計するよう要請された。 当時の陸軍の基幹小銃は22年式村田連発銃で、同銃はチューブラー・マガジン(管状弾倉)を備えるためローディングに時間がかかり、おまけに弾頭の形状によっては、後ろの弾薬の弾頭が前の弾薬の雷管を突いてしまい暴発を誘発する危険性があった。 しかし当時のドイツのモーゼル(マウザー)小銃は、のちにモーゼル・アクションとして世界的に高い評価を得ることになるボルトアクション小銃であり、陸軍は同銃のメカニズムに着目。同様のメカニズムの小銃を求めた。そこで有坂は、新しい小銃の設計に際してモーゼル・アクションを採り入れ、一説では約3か月ともいわれる短期間で設計を仕上げた。 これは陸軍の要望通りで、マガジンもダブル・カラアム(複列)の固定型であり、ストリップ・クリップを用いて全弾5発を一度に装填することができた。そしてこの小銃は、1897年に30年式歩兵銃として制式化された。 使用する30年式実包は、この30年式歩兵銃のために開発されたもので、当時最新の無煙火薬を使用する6.5mmという小口径で、弾頭はラウンドノーズだった。 また、この30年式歩兵銃の派生型として短小型の30年式騎銃も造られた。 やがて第1次大戦が始まると、当初は参戦していなかった日本に対し、連合国が支援を要請。これを受けて、30年式歩兵銃はイギリスには訓練用として、また、深刻な小火器不足に悩んでいたロシアには実戦用として、それぞれ弾薬ともども輸出された。
白石 光