特別支援学校に通う“自閉症児” 健常児の小学校の授業に参加 母が感じた「教育の在り方」
クラスの女子が息子に手渡した1枚のメモ
副籍制度の交流で、私が印象的だった出来事があります。帰りの会の後、1人の女の子が息子に、掛け算の数式をいくつか書いた小さな紙切れをくれたのです。彼女曰く、それは「カンペ」とのことでした。 「これを持っていたら、きっと頭が良くなるよ、勉強分かるようになるよ」と言って、息子に渡してくれたのです。 私は内心、「息子の場合はそういうことではないけれど…」と思いつつも、その気持ちがうれしく、何だかかわいいなと思って受け取りました。 息子も興味深げにすんなり受け取っていて、かみ合っているような、いないような2人のやりとりが、なんだかほほ笑ましく思えたものです。 ただ、この女の子もそうですが、他の子どもたちが話している内容を聞いても、息子の障害がどういうものかについては、子どもたちはいまいちよく分かっていないようにも思いました。 やはり小学校低学年ですし、耳が聞こえていないと思っていたり、話せないけど字は読めると思っていたり、なかなか理解が難しいのかもしれません。 私は、息子の障害について聞いてきてくれた子には、「脳の障害があって、言葉がしゃべれないんだ」と伝えるなどしていましたが、どこまで説明したらいいのかを判断するのが難しかったです。 そのため、学校の先生に相談して、後日、特別支援学校の先生に「特別支援学校」「自閉症」「知的障害」について、小学校で出前授業を行ってもらうことになりました。 子どもたちがどの程度、息子の障害について分かってくれたのかは分かりませんが、「こういう人もいるんだ」と少しでも知ってもらえたら、副籍制度を利用したかいがあるなと思いました。
教育現場には「きれいごと」があってもいいのでは?
副籍制度を利用して、私は障害児と健常児の関わり方について、いろいろと考えました。 障害児者を取り巻く環境は、リアルな話でもネット上の話でも、偏見や差別や誹謗(ひぼう)中傷が渦巻き、優しくない状況も多いです。 しかし、そういう陰の部分だけを見つめていては、ネガティブで後ろ向きな気持ちしか生まれません。ですから、それだけでは、どうしても非生産的な気がしていたのです。 そんな中、息子と利用した副籍制度では、きれいごとかもしれないけれど、障害児である息子を温かく迎えてくれる、健常児の子どもたちの姿がありました。 限られた場ではありますが、こういう場を体験すると、私はせめて教育の場くらいは、ある程度「きれいごと」があってもいいのではないかと思ったのです。 確かに世の中には、きれいごとでは回らないことが多いです。それでもせめて、まだ何も世の中を知らない幼い子どもたちが育つ場は、きれいごとであふれていてもいいのではないかと思ったのです。 この先、子どもたちがどんな風に考え方を変化させていくのか分からないけれど、息子と接したこの幼い日の経験を、きれいな思い出として残してもらえたらいいなと、副籍制度を通じて私は思いました。 副籍制度の交流は、親としては精神的に疲れることも多いけれど、私の心も、無邪気に息子をかわいがってくれる子どもたちに浄化されて、その一時は、純粋に息子をかわいいと思う、優しい母親になれた気がします。 そして、障害児をこんなにも優しく受け入れてくれる同年齢の子どもたちがいるという、ほっこりした気持ちも残り、よい経験となりました。何より、息子がうれしそうなのがよかったと思っています。 ただ、これはあくまで息子が、「お客さま」のような立場でいたからこそうまく成り立ったのかもしれません。 息子のように重度の障害がある人に対して、明らかに冷たい態度で接したら、いかにも「差別」というような構図になってしまいます。そのため、暗黙のうちに立場を分けて、お客さまのような感じで優しくしてもらえるところはあるのだろうと思います。 そういう意味では、普通級に混じることができるくらいの障害が軽い子の方が、対等な立場を求められる分、関係の構築はシビアなのかもしれません。 そのような現実も考えると、障害や病気などの有無にかかわらず、さまざまな生徒が同じ環境で学ぶ、いわゆる「インクルーシブ教育」に向けた課題は山積みなのだと思います。 しかし、息子くらいの障害の子どもにとっては、「副籍制度」は健常の子どもたちとほどよく関係を持てる、良い制度だったと感じています。 子どもの状況や障害の程度、受け入れ先の学校の事情、さまざまなことに考慮し、さまざまな交流の選択肢が持てるように、今後もいろいろな取り組みができていくといいなと思っています。
ライター、イラストレーター べっこうあめアマミ