【前編】北アルプスの山小屋経営、これからどうする?次代を担う山小屋後継者4人の座談会。|PEAKS 2024年9月号(No.167))
“山小屋を継ぐ”と決断した理由
――おひとりずつ、山小屋を継ぐことになった経緯を教えてください。 赤沼大輝(以下:赤沼)昔から継ぐことになるだろうなとぼんやり考えてはいましたが、反動といいますか、東京で暮らした約10年間はほとんど山と関わらずにすごしてきました。趣味も仕事も帰ったら山関係になるだろうから、それまではまったく別のことをやろうと。 2020年以降コロナ禍で四苦八苦している親父の話をよく聞くようになり、会社に入るのは家族間だけの問題ではなく、スタッフの生活にも大きく関わってくることと感じ、いつ帰るか真剣に考えるようになりました。最終的には自分の年齢と親父の年齢を考えていまがベストだと思い、帰ってくる決断をしました。 穂苅大輔(以下:穂苅)前職は通信事業会社で経営企画などに携わり、会社の意思決定の場をいろいろと見させてもらいました。会社員として働くなかで「自分にしかできない仕事ってなんだろう」と思うようになり、山小屋という選択肢もあるなと。槍か岳山荘100周年の際に後継者を出したいという親父の希望もあって、2017年に小屋に入りました。 長男の親父は「お前がやれ」と言われたみたいで、息子たちにはそう言いたくなかったようです。ちなみにうちは4人兄弟で私はその4番目。親父は「4人もいるしだれか手を挙げるかな」と楽観的に考えていたと思うんですが、意外とだれも手を挙げなくて(笑)。もうすぐ100周年が来てしまうというときに、「じゃあ俺がやるよ」と手を挙げました。 山田耕太郎(以下:山田)僕は2016年の秋、26歳のときに横尾山荘に入りました。親がこういう家業なので、自分もなんとなくそうなるのではと思いながら育ってきたんですよね。大学3年生の就職活動のタイミングを迎えたときに、父親に「おまえ、どうするんだ」と聞かれて……。継がないという選択肢もあったのかと驚きましたね。悩みましたが、曾祖父の世代から続けてきたことを自分が継げるなんて、こんなに価値のあることはないと思い「やります」と話をしました。 松沢英志郎(以下:松沢)私が戻ってきたのは2022年7月、大輝くんの1カ月後くらいですね。前職は東京に本社を置くメーカーで、最初の7年間は営業、後半の3年間は海外現地法人の販売戦略を練る部署にいました。本当は海外駐在をしたかったのですが、コロナ禍で3年ほど止まってしまったんです。 うちは姉弟が3人で私が2番目長男なんですけど、親からは「自由にやれ」と言われていたので山小屋を継ぐことはまったく考えていませんでした。でも白馬という場所で歴史と文化を築いてきた会社の経営を担える立場にあることは、すごく貴重なことでやりがいあるなと感じたし、親父が70歳を超えたということも踏まえて、会社を継ぐ決断をして戻ってきました。 ――みなさん、「継いでほしい」と言われてはいなかったんですね。 山田:はい、やれとは言われなかったです。でもきっとどの親も「やってほしい」とは思ってはいたんじゃないかな。自分たちが汗水流して守ってきたものだから。でも厳しい自然環境のなか、大変な仕事なので、強制すると逃げ出してしまうかもと思われていたかもしれません(笑)。 ――なるほど。ところで今年2月に4人でヨセミテに行ったそうですね。そもそもこのメンバーが繋がったきっかけは? 穂苅:2022年の年末に『ランドネ』の企画で集まったときですね(2023年3月号掲載)。北アルプスの7軒の山小屋の若手が集まったのですが、ほぼ初対面でした。その晩に、なくなるまで酒を飲み続けたメンバーがこの4人です(笑)。 山田:具体的に決めたのは、山小屋の会合後の二次会です。酔った勢いでその場で日程を合わせて、そこにはいなかった松沢さんにも「空けといて」と。山小屋に入る前、カナダやアメリカの国立公園を周っていて、ヨセミテのすばらしさがとても印象に残っていました。地形的にも上高地と似ているので、いつかみんなで行こうと話していたんです。以前行ったこともあって、手配は僕がしました。 穂苅:2月は閑散期のはずでしたが、ホテルが全然取れなかったんですよね。ちょうどFire Fall〞と呼ばれる滝の現象が見られる時期で。 松沢:アメリカ人が死ぬまでに一度は泊まりたいホテル〞として知られる「The Ahwahnee Hotel」にも泊まりましたね。スティーブ・ジョブズが結婚式を挙げた場所として有名なところです。 山田:みごとなダイニングルームがあって、そこでジョブズがプロポーズをしたという……。旅の間は毎日4人でいたし、夜はお酒を飲みながらいろんな話をしたりして、みなさんとヨセミテに行けてよかったと思います。